そこはこの世のものとは思えない空間だった。
暗色系の霧か雲のようなものがそこを埋め尽くし、まがまがしい雰囲気をかもし出している。
そこにいる人… いや、そもそも人であるかどうかは不明だが、確証を持つことはできない。
ただ、その者たちの影だけがぼんやりと見えているのは確かである。
「獅子土董子… ヒヒッ、こいつガ?」
影うちのひとつがつぶやいた。
そのつぶやきにもうひとつの影が呼応する。
「そうだ。長い間、我々が探していた存在…。ヤツらの痕跡を追い続けたかいがあったというものだ」
と、もうひとつの影は得意げに語った。
先日、獅子土董子の近くに現れた者である。
「ふぅん…? 堅物のアンタにしちゃぁ、上出来じゃないのぉ?」
「何? 貴様こそ、いつもたいした働きをしていないではないか!」
得意げに語った影を、また別の影が挑発する。これは女性のようだ。
「ゲハハハハァ! まァ〜た始まったァ! 相変わらず仲悪ィなァオイ!」
その様子を見ていた最初の影が、たまらず大笑いを始めた。
それからいよいよ本格的な口げんかが始まろうとしていたそのとき…、
「騒々しい… 何ゆえ、主等は静かにできぬのだ」
だんまりを決め込んでいた最後の影がその重い口を開いた。
その言葉から、これらを統べる存在であると思われる。
二つの影は仕方がなくケンカをやめ、最後の影のほうを向く。
「…あらあら、ごめんなさいねぇ? でも、アタシだって見つけたのよぉ。ターゲットの一人をね」
お荷物さんじゃないのよ。と付け加え、得意げに語っていた影を見つめると、
その影はぐぅ…、とうなって震えていた。
「ふむ…。では、その者の様子を聞こうか」
「キヒヒッ、どんなヤツなんだァ?じれってぇから早く言っちまえヨ!」
最後の影が言うと、それにつれて最初の影が茶々を入れる。
女性の影は少々あきれたものの、一度咳払いをして言い始めた。
「では、ちゃんと聞いておいてねぇ? その者の名は――」
市に虎を放つ如し
第二話 鷹森梓
「おねえちゃーん!早くしないと置いて行くよー!」
たったったったっ…と軽快な足音を立て、朝の都会の人ごみをかき分け、あたしは駅へと一直線に走ってゆく。
「ま、待ってよ〜、あずさぁ…」
後ろからお姉ちゃんがあたしの名前を呼びながら、
人ごみをかき分け… というか、人ごみにもまれながらあたしを追って走ってくる。
あ。あたしは鷹森あずさ。あずさは漢字で『梓』と書くけど、メンドウなんでひらがなにしちゃいます。
えっと、髪の毛はクリーム色で、短髪。ヘアバンドをつけていて、お姉ちゃんのお古の灰色のブレザーを着ています。
ここまでは普通の高校生らしいところだと思うんだけど、驚かないでね?ふふふ、腰には家伝の日本刀を佩(は)いてい…。
…って。あっ、まっ、待って!ページ切り替えないで!!あたし人を斬ったことなんてないから!これには深いわけがあるのよ!
そ、それはさておき。あたしの後ろから10メートルほど遅れて走ってくるのがあたしのお姉ちゃん。鷹森しとみといいます。
髪の毛はあたしとおなじクリーム色。でもあたしとは逆に腰まで伸びた長髪で、ピンクの着物を着ています。
そうこうしている間に、横断歩道の信号が赤になり、止まっていた車が一斉に動き出したみたい。
あぁん、駅までは目と鼻の先なのに。
そこへ息を切らしながら追いついたお姉ちゃんが、あたしの隣へ並んだ。
息はすでに乱れ、マラソンを終えたランナーのように手を両ひざにつけ、うなだれている。
「はぁ、はぁ…、やっと、追いついたわ…」
「もう!お姉ちゃんがもたもたしているから信号につかまっちゃったじゃないっ。」
「わたしは、ぜぇ、もう何年も前に、退魔の使命は、はぁ、終わったんだから、ぜぇ、あの時ほど、体力は、はぁ、残ってないのよぉ…」
あちゃー、この人、さりげにあまり他人に聞こえてはいけないことをさらりと口にしちゃったんだけど。
パソコンの前のアナタには説明するけど、実はあたしたち鷹森家は、代々古くからこの土地を悪しき魔物たちの脅威から守ってきたのよ。
何年か前まではお姉ちゃんがその役目を負っていたんだけど、腕にケガをしてから、退魔の役目はあたしに回ってきました。
この日本刀も長い間受け継がれてきたもので、これまで多くの魔物を葬ってきたのです。どう?すごいでしょ?
「まったく運動していないわけじゃないんだから。そんな三十路超えたオバサンみたいなこt」
「何か言った?」
「いえ、なんでもございませんわお姉さま」
お姉ちゃんが背筋が凍えるほど冷たい視線で睨んできたので、これ以上はなにもいわないことにしました。
ほんと、こういうときだけはやーさんの娘って感じの貫禄を出すんだよね…。(あたし一応妹なんだけど…)
それにしても、この信号は長いなぁ。まったく、これだから都会は。
信号を待っている時間は、急いでいる時ほど長く感じるよね。…ねぇ、パソコンの前のアナタはそんなことない?
あぁもうじれったい。早く変わらないかなぁ…。
いつでもダッシュできるようにスタンディングスタートの姿勢で構えていると、
「ねぇ、あずさ。ひとつ、聞いてもいいかな?」
息もようやく整ったらしいお姉ちゃんが、あたしに問いかけてきた。
にらめっこしていた赤信号から一時的に目を離し、スタートの姿勢も除いてお姉ちゃんへと視線を向ける。
お姉ちゃんは少し視線を泳がせた後、口ごもりながらぽつぽつと話し始めた。
「えぇと…、その、さっき言った、退魔の使命の…こと、なんだけど。
あずさが、その使命を負うことになって… キケンな、目にあって…」
言葉もあまりまとまっていない様子だった。(会話は周りの人には聞こえてないみたい)
それでも、お姉ちゃんは話し続ける。
「…不注意とはいえ、わたしがこんなケガをしなければ、あなたはこの役目にかかわることなく、
普通の生活を送れていたはずなのに…。本当に、ごめんなさい」
ケガをしたほうの腕をさすりながら、申し訳なさそうな表情をする。
お姉ちゃんは時々、思いつめた表情をすることがあったけど、まさかずっとこのことを考えていたのかな…。
アナタが悲しむ必要はまったくないのに。あたしまで…悲しくなっちゃうじゃん。
あたしはいつもの感じに振舞いながら、今の気持ちをぶつけた。
「ふぅ。お姉ちゃんは心配性なんだから。気にしなくていいんだよ。あたしは大丈夫。だから、謝らないで。」
「…うん。ごめんね」
「だから謝らないでっての」
あたしは苦笑いし、ちらっと信号を見ると、ちょうど青信号に変わったところみたい。
信号待ちをしていた人々がいっせいに歩き出し、大移動が再び始まる。
こうしちゃいられない。一気に行くよ!
歩く人々の合間を縫いながら、だっと駅まで駆け抜ける。
「あ、ちょ、だからおいてかないでってばぁ〜〜!!」
対して、完璧に出遅れたお姉ちゃんは、またも人ごみにもまれながらあたしを追いかけて走ってくる。
…
そんなこんなで駅内。たくさんの人々があわただしく行きかっている。これが朝のラッシュというヤツかな?
信号にはつかまったけど、電車の時間には何とか間に合いそう。ひやひやしたよ…。
切符も買い終えたから、もうあとはホームへ行くだけ。
でも、お姉ちゃんとあたしは乗る電車が違うから、ここでお別れとなります。
「それじゃあ、わたしはこっちの電車だから。」
「うん、あたしもあっちの電車でバイト先へ向うから。またね。お姉ちゃん」
あたしはお姉ちゃんに背を向け、改札口へ行こうと足を進めようとした。すると、
「…あ。待って、あずさ」
お姉ちゃんがまた呼び止めた。時間もあまりないんだけど…。
今度は何?と、首だけをお姉ちゃんの方向へ向けて話を聞く。
お姉ちゃんはさっきとは違って、真剣な面持ちになって言いました。
「…最近、変なヨカンがするの。なんだか、胸騒ぎがして…」
お姉ちゃんは昔からこういう事に関しては鋭いみたい。
自分の周囲によくない気配を感じると、胸騒ぎがするらしいんです。
でも、ぜんぜん怖くなんかない。
だから、あたしはこう返しました。
「だから言ったでしょ。あたしは大丈夫だって」
腰に帯びた刀を握りしめ、お姉ちゃんに見せ付ける。
そう。あたしにはご先祖様から、そしてアナタから受け継いだこの刀があるからね!
いつも勇気を与えてもらっているから、魔物の退治もいっそうがんばれるんだよ…。
自信満々なあたしを見たお姉ちゃんはふふっと笑って、
「わかった。あずさのこと、信じてるから。それじゃあね。お仕事に学校、がんばってね」
「…うん、お姉ちゃん」
と言い、後ろ向きに歩きながら小さくあたしに手を振ってくれた。
…さて、今日も一日がんばらなくっちゃね!
お姉ちゃんを背にして、ホームへの階段を駆け上っていくあたしなのでした。
…。
「―― 以上よぉ。これが、アタシの観察した分ねぇ」
視点は先ほどの空間へと戻る。
彼らの前には新たな少女、鷹森梓の日常が映し出されていた。
それに、得意げに語っていた影が女の影に詰め寄る。
「この娘がヤツらの子孫、本当に間違いないのか?」
「間違いないわよぉ。これを見てもわからない?だからアンタは堅物なのよぉ」
「うるさい!だいたい貴様はな…」
「あーあ、こりゃァ、終わりそうにねェナ…」
もう止めらンねェ…とあきれながらケンカの様子を見守る。
そんな二人の様子を見かねた最後の影が、
「あやつらは使い物にならぬ。…お主に頼もう」
「ギヒヒヒヒッ!!ようやくご指名かァ!待っていたゼ」
先ほどより大きな笑い声を上げて、いいゼ。と首肯する。
「二人の所在が割れたんだ。こりゃァ簡単簡単。アイツらより早く見つけてやるゼェ…」
と、にやりと笑って言った。そのとき、ぐわん、と空間が一瞬揺らいだかと思うと、
その影はこの空間から消え去ってしまった。
それを見届けた後、
「もう少しだ… もう少しで、我々の宿願を果たすことができる…! くくく…ははははは…!!」
と言い残し、心底愉快そうなトーンで高笑いを上げたのであった。
役者は着々と集いつつある。
この者たちの真意は何なのだろうか。
そして、巻き込まれてしまった者の運命とは。
多くの謎を孕み、この物語は始まろうとしていた…。
次回へ続く…
作:黒星 左翼