市に虎を放つ如し




……気がつくと、私、獅子土董子は両手両足を縛られ、車の後部座席に転がっていた。
さらには猿ぐつわをかまされ、声を出すことさえもできない。なぜか目はふさがれていないみたいだけど。
体は強い重力で引っ張られ、身体が座席にへばりついている。どうやら相当なスピードが出ているようだ。
私は薄く目を開け、横倒しのままに前の座席を見る。
運転席にも、助手席にも黒いスーツの男が座っているのが確認できた。見るからに怪しいな。
さて、ここまで見たモニターの前の皆はもう分かっているとは思うけど…、……そう。私は誘拐されたのだ。

「(…いったい……どうして…こんなことに……)」

薬の影響か、身体がしびれて力も入らず、まだ意識もぼんやりしている。
たとえれば、寝ぼけている状態に近いかもしれないな…。

とりあえず、状況を整理するために私は目を閉じて今までの出来事を思い出していた。
えっと…、確か、学校も終わって、皆と別れた後に……あぁ、橋本さんが待っている駐車場へ向かおうとしていたんだっけ。
あの時のこともあったし、橋本さんの周りを探っているという『組織』を警戒して、待ち合わせの場所をまた変えていた。
でも、歩いていた途中で突然体を押さえつけられて…ハンカチで薬を嗅がされたんだ!

「(そして…体を縛られて…、今こういう状況ってわけ、か…)」

意識もはっきりとし、身体のしびれが取れてきたところで、フンッ、フンッ!と身体をよじらせて縄抜けを試みる。
はたから見れば芋虫のように動いていた私だったけど、ドアやシートに何度も頭をぶつけただけで、やっぱり縄がほどけることはなかった。
結局は無駄に体力を消費しただけ。マンガやドラマのようにはいかないか…。
一応、前の座席に目をやるけど、どたばた騒いでいた割には、男たちは私が目覚めたことに気づいていないようだ。
私はホッと安堵したところ、今度は携帯電話の着信音が鳴り響いた。ちょっ、軽くびっくりしたじゃねぇか!
助手席の男がポケットに手を入れ、携帯電話を取り出す。これは好都合ね。何か情報は得られないかと私も耳を傾ける。

「……はい、…はい。獅子土董子の確保には成功しました。」

これで人違いってわけでもなく、確実に私を狙っていたってのが分かったな…。
うーん、やっぱり電話の相手の声は聞こえないか…。

「…えぇ。この地域一帯にも人払いの術式を施しました。…はい。一般人を巻き込む心配はございません」

人払いの…術式…?よくわからないけど、警察とかが来れないようにするためのものなのだろうか。

「はい…。了解しました。では、手はず通りに」

男は、ピッと電話を切り、再びポケットの中にしまいこむ。
この黒いスーツの男たちの正体がわかるような情報を聴くことはできなかったか…。

「(クソ… 私を誘拐して、どうしようっていうんだ…!?)」

いったんそうは思ったものの、私はハッと気付く。
まさか、この男たちが橋本さんの周りを嗅ぎまわっているという『組織』の一員なのか…!?
くそう。なんてこった…。これは本格的にやばい状況じゃないか…!
バクバクバク、と心臓の鼓動が速くなり、体中からは大量の汗が噴き出てきた。

「(うぅ…っ、橋本さん…、橋本さん……っ!)」

これから、一体どうなっちまうんだ…。私はじっと祈り続けるしかなかった。



市に虎を放つ如し

第十四話 抗争への歩み



話は数日前のある夜の鷹森家へとさかのぼる。

とっ、董子ちゃんを誘拐するってどういうコトなの!?

バンッ、と机をたたく音とともに、怒号が豪邸に響き渡る。
机に置かれていた二つの湯飲み茶碗が倒れ、飲みかけだった緑茶が机の上に広がっていき、畳にも小さな染みを作る。
今日はいつものブレザーではなく、白いワンピース服を着ている梓は、机に乗り出すような感じで父親に迫っていた。
怒りをあらわにする彼女の唇はわなわなと震えている。
それに対し、机を隔ててあぐらをかいている満時は、そんな娘を見ても全く動じることはなかった。
彼はふぅ、と大きく息を吐き、険しい顔つきで、語勢を強めて言う。

「お前も知っているだろう。嶋山会の者が襲撃され、その場に居合わせた者全員が惨殺されたことを」

この様子からは、『娘に甘い父親』としての満時を見ることはできない。
今は『鷹森組組長』としての彼がここに存在しているのだ。
その剣幕に気圧された梓は、うぅ、と唸って体をひっこめ、再び正座をする。

嶋山会惨殺事件。隣町にある繁華街のとあるバーが襲撃され、店内にいた者全員が何者かによって惨殺されたという事件だ。
嶋山会は末端の末端ではあるが鷹森組系の所属であり、ヤクザ同士の抗争が疑われる事件であったため、満時も現場検証に呼ばれていた。
しかし、彼らの死体には数多くの不審な点が見つかっている。
引き裂かれ、肉を喰われ、骨を砕かれた跡。これは人間のなせる所業ではないのは明らかだろう。
満時はこれを魔物の仕業だと踏んでいるのだ。
一応須田からはこのことを聞いていた梓であったが、
直参の者以外の組織、ましてや末端なるとほとんど面識がないため、どうもピンときていないようだ。

「この事件には橋本組がかかわっていると見て間違いはない」
「…証拠は?」
「改めて藤浦と柿村に現場を調べさせている。警部どのの許可をもらってな。じきに結果が出るだろう」

まだ結果出てないじゃん…と梓はむくれるが、満時は続ける。

「報復の意味も込めて、まずはこれが最初の理由だ」
「なによ。まだ何か理由があるの?」

梓はとても不機嫌そうに問う。

「あぁ。これは…『アイツ』を引きずり出すためでもある」
「『アイツ』…?」

梓は首をかしげるが、満時は少しの間黙っていた。
言うのをためらっているような、何かを思い出しているような所作。
意を決したのか、やがて満時は静かに語りだした。

「…………ヤツの名は、魔獣メリッサ。樒(しきみ)の… 母さんの、仇だ」

満時の声はわずかに震えている。
梓も父の言葉に一瞬目を見開くと、うつむいて拳を握りしめる。

「仇……。お母さんの……」

梓には、母の記憶がほとんどない。
それは梓の母―― 鷹森樒は、十数年前に起こった安澄守五家と魔獣メリッサとの大決戦の際に命を落としているからだ。
…彼女の最期は壮絶なものであった。負傷して身動きのとれなくなった満時を庇い、身代わりとなって喰い殺されたのである。
彼は片時も忘れたことはない。骨が砕け、肉や内臓が食いつぶされる音。体中に浴びた彼女の血。そして最期まで夫の身を案じ続けた妻の涙。
数日にもわたるこの大決戦は、双方痛み分けということで幕を閉じた。
満時は左足の自由を失い、メリッサにも大きな損失を与えることとなった。

「…あれ以来、ヤツは行方をくらませていた。だが、橋本組のもとにいるとわかったときから、
 お前たちの知らない間に準備を進めていたのだ。この時を逃すとチャンスはもう一生巡って来んだろう」
「……うん」
「表沙汰にはなっていないが、犠牲者は増え続けている。これ以上、悲しむ者を増やしてはならない」

妻の姿を思い浮かべ、強い口調で満時は言う。
彼らが数千年の歴史の中でその命を賭して魔物たちと戦ってきた理由は、ひとえに人々を守り続けるためである。
しかし、長い歴史においてもやはり守れなかった者は大勢いる。
その中には妻である鷹森樒も含まれているのだ。

「今、『鷹守宗孝』はお前の手にある。………お前が、ヤツを討つんだ」

満時の言葉に、梓は黙って頷いた。
果たせなかった父の想いを自分が引き継ぐのだ。梓は心の中でそう思った。

「……これが、二つ目の理由だ」
「じゃ、じゃあ、なんで?董子ちゃんを誘拐しないとダメなの!?董子ちゃんは関係ないでしょ!?

梓はまたも満時に詰め寄ろうとした。
だが、満時は娘の目を見据えて答える。

「獅子土董子を誘拐することこそが、最後の理由だ」
「……!!」

満時の言葉に梓は動揺していた。
唾をごくりと飲み込み、額から一筋、二筋と汗が流れ落ちる。
そして満時は続けた。

「南陽子がお前たちを襲撃したあとから、勝手だが、篠崎や須田に命じてお前たちの学校生活の監視をさせていた。
 その過程で獅子土董子……あの子についてわかったことがひとつある。それはな――」
それ以上は言わないでッ!!!

梓は立ち上がり、声が裏返るほど大声で叫ぶ。
そのせいで息が上がったのか、ハァ、ハァ、と肩を上下させながら満時を睨みつけた。
満時は何もかもを見透かしていた。梓の想いもすべて。

「……やはり、気づいていたのか」
「…………っ」

梓は俯き、唇をかみしめる。

「何も言わない…ということは、図星でいいんだな?」
「もう寝るから」

梓は、まだ軽くうつむいたまま、ぶっきらぼうに返事をし、障子に手をかけようとする。
そんな彼女を尻目に、満時は低い声で言い放つ。

「……愛しい娘よ。私たちの仕事を忘れたのか」
「私は、絶対に嫌だからね」

振り向かずにそう言い残し、梓は部屋を去って行った。
障子がぴしゃん、と力強く閉まる。それは彼女の心情を端的にあらわしていた。
こぼれた緑茶や、倒れたままの湯飲みを見て満時は大きく息を吐く。

「ふふ、またあの子とケンカしたのですか?お父様」

障子を開け、黒い和服を着た、髪の色は梓と同じクリーム色だが、梓とは違って長髪の女性が入ってきた。
彼女は梓の姉、鷹森しとみである。

「……聞いていたのか」
「イヤですねぇ。たまたま通りかかっただけですよ」

さっき梓が座っていた座布団に自分も座り、しとみはにっこり笑顔を浮かべる。
ま、どうでもいいが…と、満時は懐から電子タバコ(愛娘のために禁煙しました)を取り出し、一服する。

「やはり、梓にはつらすぎたのかもしれんな…」

梓の出て行った障子を見やり、満時は言う。

「あの子も、葛藤しているんですよ」

しとみはそういうと、どこからともなく取り出したふきんで机の上を拭き始める。

「あずさはあなたの娘です。ちゃんとあの子なりの答えは導き出せると、わたしは信じていますよ」
「そうだといいんだがな」

電子タバコをまた懐にしまいながら、満時は言った。
しとみも机を拭き終え、倒れていた湯飲みをお盆の上に載せる。

「よし、お片づけ完了です。では、わたしもそろそろ…」

お盆を持って立ち上がり、退室をしようとしていたしとみであったが、満時は彼女を呼び止める。

「時にしとみよ」
「はい、なんでしょう?」

満時はきょとんとして立ち止まった娘の姿を上から下まで見つめると、
ふと何かを悟ったように、

「………お前も母さんに似て美人になったな…。……やはりあの男の嫁にするには惜しい
「ちょ、ちょっと何言ってるんですかその銃は何なんですかまたハルくんを暗殺しようとしてるんですかーーッ!?
うるさいうるさいうるさーい!!手塩をかけて育ててきた娘を奪われる気持ちがあの男にはわかってたまるか!!
まったくもう!さっきまでのシリアスな雰囲気が台無しじゃないですか!
天野ォオォォ!!お前などに俺の娘はやらnごぶぅ!!

ぎゃーぎゃー言い合いを始めた果てに、満時は娘の強烈な左ストレートを頂戴し、のた打ち回ったひょうしに机の角にすねをぶつけ、
漫画などでこてんぱんにされた悪役のようにうつ伏せで伸びている(※一応彼は極道の長です)。
しとみはというと、『まったくもう…次こんなことしようとしたらこれだけじゃすみませんからね!』といって足早に部屋を出て行ってしまった。

数分間そのままでしょんぼりとしていた満時だが、懐にしまっておいた携帯電話が鳴ると、
うつぶせの状態から、スッとあぐらをかいて電話に応じる。

「…私だ」
『藤浦です。嶋山の件についてご報告があります』

電話の相手は藤浦だった。
彼は現在柿村とともに、襲撃のあったバーの調査をしているところである。

「………、……そうか。見つかったか。私の読みは外れていなかったようだな」

満時はにやりと笑う。

「"報復"は予定通り後日決行だ。部下に命じ、武器の最終調整を行え。強化術式を施すのも忘れずにな」

そういって満時は電話を切り、携帯電話を懐へしまう。
準備は万全にせねばな…と思った直後、梓との会話が脳裏によぎる。

「(さて、あとは梓の心情しだいか…)」


かくして、時間は現在へと戻る。


…。


あれから1時間か2時間ぐらいになるのか? 私を乗せていた車はスピードを徐々に緩め、ようやく停止する。
そのとき、横たわった私の足の側のドアがばんっ、と開かれた。
外からはつんとした潮の香りが漂ってくる。すぐそこに海があるのかもしれない。
ドアを開いたのはまた別の黒スーツの男だった。私はその男をこれでもかと言わんばかりににらみつける。
男はかまいもせずに冷淡な口調で私に告げる。

「ここからは歩いてもらう。今からお前の足の縄を解くが、抵抗しようとしたら痛い目にあってもらうぞ」

なんだと…!?と私は思ったが、男は小声で何か呪文?みたいなのをつぶやくと、本当に足の縄がするするとほどけていった!
まるでマジックか何かを見ているみたいだ…。
私は言われたとおりに外へ出ると、車の中とは比較にならないほど潮の香りが私の鼻をうつ。
目が暗闇に慣れてきたところで周りを見渡すと、暗がりの中にいくつも並ぶコンテナや、巨大なクレーンも見ることができる。
そしてあれは…うぉ、めっちゃでっかい貨物船があるな。どうやらここは港のようだ。
対岸にはビル群のネオンも確認できる。真っ黒な海に様々な色の光が反射する光景には心を奪われそうになる。
……って、今はそんなことを考えている場合じゃないよな。

「(さて、と。このオッサンの目を盗んで逃げられないかな…?)」

手を後ろに縛られて口をふさがれたままだが、男に混じって工事現場で鍛えられたこの体ならば、大人相手でもそこそこ通用はするだろう。
男が油断するタイミングを見計らって蹴りを入れようと思った私だったが、薄闇をぬぐって新たに五人か六人ほどの黒スーツの男が現れたのに気がついた。
電灯の淡い光で照らされた男たちをよく見ると、その全員が腰に日本刀を携えている。まさかこいつらはヤクザ関係の人間か…?
さっきの男だけなら抵抗すれば何とか逃げられそうだと思ったけど、こんなに大勢の男を相手にするとさすがに分が悪い。
仕方がないので私はしぶしぶと歩き始める。

男についていって二分ほど歩くと、コンクリート造りの建物が見えてきた。大きさからして、港全体を管理する施設だと思う。
その施設の二階の、そのまた奥のほうの部屋へと私は連れてこられた。
そして、『管理室』と書かれた扉を開くと、男たちは深々と頭を下げる。
部屋の窓からは港の全景がよく見え、何に使うのかは私にはわからないけど、普段はあまり見ないような機材がたくさん置かれている。
普通は港の作業員が働いている部屋のはずだが、それに似つかわしくない黒スーツの男たちが大勢存在していた。まだこんなにいたのかよ…。

「ご苦労だったな」

黒スーツ男たちの親玉らしき男が発言する。
黒髪でオールバックの黒いスーツ。左ほほには何かにひっかかれたような傷跡。
足が悪いのか、右手には装着型の杖を持って立っている。
その男の姿には、幾度も死線を潜り抜けてきた兵士という感じの印象を受け取ることができた。

「まぁ、立ち話もなんだ。彼女にいすを用意しろ。後、口の布は解いてやれ」

親玉らしき男がそういうと、周りにいた男はささっと準備をする。
その場にあった職員用のいすに座らされ、また呪文のようなもので口の布が解かれる。
息苦しかったものからようやく開放され、ちょっと咳き込んだ後に息を整える。
私はあの夜のことについて思い出していた。銃を持って私たちを付けねらっていたあの男。
アイツはきっとこの男の差し金に間違いない。私はそのことについて言ってみた。

「アンタたちが橋本さんの周りをかぎまわっているっていう組織だな?
 私たちの話を盗み聞きをしようとしていたあの銃を持った男も、アンタたちの差し金だろ!?」

だが、男の反応は私の予想とは少し違っていた。
傷の男は首を傾げて考えるそぶりをするが、すぐに私に言った。

「…ふむ、まぁ、君たちの周りを調べさせてもらっていたのは認めるが、
 君たちに見つかるようなヘマを起こした者などはいないはずだが」
「え…!?」

じゃあ、どういうことだ…?と私は思っていたが、まぁいい、と男は話を区切る。

「さて、少し事情があって君を誘拐させてもらった。今のところはだが、君に危害を加えるつもりはない」
「ふざけんじゃないわよ。そんな何者かわからない怪しいヤツを信じられるわけないだろ!」
「…そうだ、自己紹介が遅れたな。私は鷹森満時。極道の長であり、退魔の一族でもある」
「鷹森……って」

この苗字には聞き覚えがある。
今日もたくさんおしゃべりをしたり、一緒に笑いあったクラスメイトの――

「娘が世話になっているな」

……私の想像通りだった。男の隣に、私もよく知った顔がゆっくりと出てくる。
クリーム色の短髪で、腰には日本刀を携えているという風変わりな格好。
今は見慣れたブレザーではなく、装飾のついた巫女服を着ている。
私は少女の名を告げる。

「あずさ……」
「…董子ちゃん」

私の声を聞いたあずさは、とても申し訳なさそうな表情をしている。
付き合いはそんなに長いというわけではないが、あずさのあんな表情を見たのは、あのときのクラスでの出来事以来かもしれない。

「ちなみにこれは退魔を行う際(女性用)の正装でな。やはりさすがわが娘だかわいいz」
今はそんな話しなくていいんだよッ!

ゴスッ!という音とともに、あずさのパンチが満時…いや、親父さんの右ほほにめり込む。
なんなんだあんたら。こんな茶番につき合わされるくらいならもう家に帰してほしい…。
ジトッとした目で成り行きを見ていた私だったが、とりあえず強引に話を本題へと戻す。

「…で、私を誘拐する理由はなんなのよ」
「………嶋山会襲撃の報復、とでも言っておこう」

渋い顔を演じているが、さっきのパンチの威力が強すぎたのか、右ほほをさすりながら満時は返答する。
……なんか、さっきまでの威厳がまったく感じられないな…。
しかし、満時の言葉からは本当は別の意図があるようにも思える。
もし本当に私をさらうだけなら、何もあずさまでつれてくることはないはずだ。
あずさがここにいるっていうことは、やはり魔物のことが絡んでいるのか…?
私は思慮をめぐらせていると、親父さんはあずさに何か耳打ちをしている。

「(今のところ、目だった"兆候"は見られないが…、まだまだ安心はできんぞ。
  董子ちゃんを解放する条件は、すべてが終わった後、本当に彼女が安全だと認められた場合だからな)」
「(…わかってるよ)」

不穏な空気を感じたが、今の私にはどうすることもできないな…。
ん? …話が終わったのだろうか、あずさは私に近づいてくる。

「ごめんね、董子ちゃん。こんなコトに巻き込んじゃって…」

そういってあずさは頭を下げる。

「また、嫌われちゃったかな…」
「……」

その言葉を聴いたとき、南陽子とそのパートナーの暗男という影…のようなやつに襲われた日のことを思い出した。
最近はもうほとんど薄れているが、あの日からなぜかあずさに殺意を抱くようになってしまっていた。
自分でも理由がよくわからない。でも、それを考えようとすると頭が痛くなってしまう。
……私は別にあんたのことが嫌いなわけじゃないんだよ。
あずさを安心させようと、そんな言葉をかけようと思ったときだった。

ピリリリリ…!

突然、携帯電話の着信音が部屋の中に鳴り響いた。親父さんやあずさも含め、部屋にいたもの全員に緊張が走る。
その電子音が途切れたため、皆の視線を追うと部屋の端のほうにいる若い黒スーツの男が、携帯電話を取り出しているのを確認できた。
男は真剣な表情で携帯電話の画面を見つめ、厳かな口調で言う。

「…術式の発動圏内に数十台の車両の進入を確認しました。おそらく、橋本組の車両かと」
「は、橋本組だって!?

私は思わず大声をあげてしまった。
ということは……、橋本さん、私を助けに来てくれたのか…!?

「来たか」

親父さんが静かにつぶやく。
先ほどの情けない親父を発揮していたこの人だが、顔つきが険しいものに戻っている。
…ところで、この人は自分を『極道の長』といったよな。
橋本さんもヤクザの組長だ。ということは、これから始まるのは…、まさか……!

「おい、親父さん!まさかあんたらは橋本さんを……」
「橋本が来るのは予想の範疇だったが、狙いはあの男ではない」

私が最後まで言い終わる前に、親父さんはばっさりと断ち切る。
そして若い黒スーツの男のほうに向き直り、親父さんは言った。

「"アイツ"の姿は確認できたのか」

その声色には、気のせいか威圧感を感じる。
親父さんの口調に少しビクッ!と男は体を震わせたが、あわてて携帯電話をもう一度確認する。
文字を追っているのか、男の目が右へ左へと動いている。
携帯電話に視線を向けたまま男は言う。

「別のポイントからも進入が確認されました。進入時に発生した波紋の大きさから考えて、これは人間や大型車両のものではありません」

そういうと、男はつばを飲み込む。額からは一筋の汗が流れ、その汗はスーツにこぼれ落ちる。
そしてすぐに顔を上げ、親父さんに言った。

「明瞭に確認はできませんが、この巨大な反応は"アイツ"のものです」
「…そうか」

親父さんはそういうと、後ろにいる大勢の部下のほうへと向き、指示を飛ばす。

「まもなく抗争が始まる。この部屋にいる者たちは、すでに待機している者と合流し、早急に戦闘の準備を行え」

『了解です!』と部下たちの声が重なる。

「そして、梓」

親父さんはまだ私のそばにいたあずさのほうへと向く。
いつの間にか、あずさの表情はさっきまでの弱々しいものから真剣なものへと変わっている。
これでこそ、いつものあずさだな。

「我々が橋本組の鎮圧を行っている間、お前は魔獣メリッサを討ち取れ」

ここでやっと名前が出てきたか…。でも、メリッサか…聞いたことがある名前だな……どこでだったかな?
あずさは少しの間目を閉じて刀を握ると、何かを決心したかのように、強くうなずく。

「……わかった」

ゼッタイに負けない、とあずさ拳を握りしめる。
あずさにとっても、この戦いはとても大事なものなのだろうか…。私にもそれがひしひしと伝わってくるよ。
親父さんはそれを確認した後、全員に向けて強い口調で言う。

「最後に、念を押して言う。彼らを傷つけてしまうのはやむをえないが、決して命を奪うことがあってはならん。
 我々の目的は人を殺すことではなく、人を守ること。そのために戦うのだ」

親父さんの言葉に、全員がうなずく。

では、行動開始だ!皆、絶対に死ぬんじゃないぞ!

親父さんがそう叫んだ後、黒スーツの男たちは一目散に去って行った。
あずさも歩き始めようとしていたようだが、また私のほうへと向き直る。

「それじゃあ、あたしも行ってくるよ。すぐに終わらせて戻ってくるから、待っててね!」

私に一瞬笑顔を見せたあずさだったが、それはまたすぐに真剣な表情へと戻る。
そして、彼女の服が目の前で翻ったかと思ったら、もうすでにあずさの姿はなかった。
椅子から立ち上がって窓の外を確認すると、黒いスーツに交じって、あずさの巫女装束が見える。
そして部屋を見回すと、ものの数秒前まで大勢の人がいたのに、今はもぬけの殻同然だ。
しいて言えば私を見張っている黒スーツの男が数人残っているだけだな…。

「…これから、戦いが始まるのか」

私はボソリとつぶやく。
どうか、橋本さんも、あずさも無事であってくれ…。
目を閉じ、心の中でそう願う私だった。


…。


場面は深夜の高速道路へと移る。
この地域では山間部に高速道路が通っているため、山や田園などの緑に囲まれている。
それでも山の中では不似合いな照明によってオレンジに照らされている道路を、猛スピードで一台の車が走りぬけていった。
さらにその後ろには、一台、またもう一台と、それぞれ別の車線からも次々と車が追いかけてくる。
その数は実に数十台。大勢の車が隊列をなして走っているこの光景は、さながら映画のワンシーンのようにも見える。
車に乗っている人物は、ほかならぬ橋本組組長の橋本渉であった。
彼らはある事情のために織笠市の隣町、安澄市へと向かっている。

「おい、今ここはどの辺りだ」
「先ほど安澄市に入りましたぜ、兄貴。まもなく安澄ICです」

焦っているのか、少し気が立っている渉の表情を部下はミラー越しに確認し、淡々と言う。
その部下の言葉どおり、先ほどまでは山ばかりの景色だったのだが、ちらほらと大きな建造物が見え始めている。

「クソッ、うかつだった…」

座席に深く腰をかけ、頭を抱える渉。
ずっと警戒していたつもりだったが、まだ少し油断していたのかもしれない。
ものの数分でも董子を一人っきりにさせたのが間違いだった。また四ツ和財団に狙われるリスクはあるが、
近くまで迎えに来たほうがよかったのか。そんな後悔の念が橋本の頭の中をめぐる。

「……今は、そんな後悔をしている場合じゃないな」

頭を上げて、普段の調子を取り戻して渉はつぶやく。
すると、部下がルームミラー越しに渉の姿を見て話しかける。

「ところで兄貴、なぜやつらは董子を狙ったんでしょうかねぇ?そこが引っかかるところなんですが……」
「そうだよなぁ」

やつらはヤクザでもあるが退魔の一族。
おそらく、一番の目的は我が妻のメリッサなのだろう。
仮に俺たちをただおびき出して、その場所でメリッサを倒すつもりなら、わざわざ董子をさらって行かずとも、
本部に乗り込んでくればすむはずだ。だが、その場合だと組長会のメンツが黙っちゃいないだろうが。

「どうも、俺には皆目見当がつかないな…」

とはいえ、董子には何か大きな秘密があるんじゃないだろうか、とも薄々思い始めている。
考えてみれば、初めて出会ったときからなにか彼女には秘めたものがあると感じていたのだ。
渉は、前に捕まえた四ツ和財団の監視員の男の姿を思い浮かべる。

ボっボスは董子も焼石カンパニーからの提供だとおもっ思ってるんだぁああああ!

これは、苦しみに耐えかねた哀れな男が、死ぬ間際に放った言葉だ。
あの時はメリッサにさえぎられてしまったが、時折、渉はこの言葉の意味を考えていた。

「(誤解だが、あの男は董子のことを焼石カンパニーからの提供と言った……。
  ということは、四ツ和財団は董子の秘密について何か知っていると考えていいだろう。
  そうなると、焼石の『もうひとつの事業』から考えて董子は――)」

渉の考えがひとつの結論へとたどり着こうとしていたとき、

「そういえば、メリッサの姉御は大丈夫なのですかい」

再び部下が渉に話しかける。
腕を組んで物思いに耽っていた渉だったが、驚いたひょうしに考えていたことを忘れてしまった。
仕方がないので、そのまま部下に応対する。

「あ、あぁ。彼女なら心配はいらない。その証拠に、俺たちとは別ルートで安澄市に向かって、もう居場所まで突き止めているしな」
「へい。安澄市南区の安澄港っすね」

つい先ほど、メリッサから連絡があったのだ。
まだそのルートから目的地に向かっている途中らしいが、董子の存在を感じ取ったらしい。
その場所こそが、安澄市南区にある安澄港。
この地域の主要港としてもよく知られている港である。
董子の居場所も判明し、もうすべてが万全なところだが、渉は少し疑問に思う点があった。

「(…しかし妙だな。さっきからまったくほかの車とすれ違わないぞ)」

対向車線にも、前方にも、橋本組以外の車が走っている様子はまったくない。
この時間帯には、普通ならば長距離トラックやら夜勤帰りの会社員の車やらが見えてもおかしくはないはずだが…。
だがしかし、周りの車がいないおかげでこうして猛スピードで高速道路を走れているというのも事実だ。

「(いまさら細かいことを気にしていてもしょうがないな)」

橋本は首を振り、さっきの疑問をすぐに取り払うと、
その鋭い眼差しを夜空に向け、こうつぶやく。

「董子…、必ず俺が助けてやるからな…!」

渉の瞳には、決意の炎がともる。
そのころ、左車線前方にはいよいよ出口が見えてきた。
設置されている看板には『安澄』と表示されている。
目的地の安澄港まではもう目と鼻の先である。



橋本組を待ち構え、魔獣メリッサを討たんとする鷹森組。

対するは、彼らにより誘拐された獅子土董子を救出せんとする橋本組。

この両組織の対立は、後の物語にどのような影響を及ぼすのか。

決して相容れることのない二つの組織の"抗争"が、今まさに始まろうとしていた…。

次回へ続く…。


作:黒星 左翼