市に虎を放つ如し




場面は移り、鷹森組と橋本組の交戦地・安澄港のゲートから少し離れた場所のビルの屋上。
そこには、黒スーツを着こなした数名ほどの人間が存在していた。無論、それは鷹森組や橋本組の系列の組織のものではない。
本来ならば、これらの人物の存在を見逃すことはなかったとは思うが、
先刻の鷹森梓と橋本メリッサの死闘を見守っていた彼らには、気付く余地がなかったのも無理はないだろう。

「――よくやった、狙撃は成功したようだな」

聞こえてきたのはあの初老の男の声。ほかならぬ四ツ和財団会長・四和誠一郎のものである。
今、彼の右手には携帯電話が握られている。

「私もこの目でしっかり確認したよ。鷹森梓はあの魔物に勝利し…、獅子土董子もパーティの舞台に現れた。
 ここまでうまく事が運べたのも、君たちの協力があってこそだ」

電話の相手は別の場所から狙撃を行っていた特殊工作員のメンバーの一人。
つまり、とらわれていた董子を助け、メリッサの胸を貫いた弾丸の主である。

「それにしても、『シルバーバレット』か…。持つ意味の通り、ちゃんと『決め手』となってくれたようだ」

シルバーバレット。現代では『決め手』や『特効薬』というたとえでもつかわれるが、
もともと西洋の信仰でのシルバーバレットは狼男や悪魔などを撃退するために用いるものとされており、その名の通り銀製の弾丸である。
それはスキュラであるメリッサにも十分効果を発揮し、ごく一瞬の間彼女の動きを止めることができたのだ。

「さて、もうそろそろ"あの男"が現れてもいい状況だ。これを抑えれば橋本組との関与を示す決定的な証拠となる。
 Cポイントで待機をしている監視員の者にも伝えろ。いいな」

そう言って四和会長は電話を切ると、港のほうを眺めつつ、少しの間考え込む。

「(アレを見せ付ければ、有沢咲耶の『能力』も目覚めると思ったのだが…
 いまだにその兆候が見られないな。まさか、『影の勢力』の読みが外れたのか?)」

一瞬そう考えた四和会長だが、すぐに首を左右に振った。

「(そんなはずはない。ヤツらが目につけているということは、
 必ず能力が眠っているはずだ。このまま様子見を続けるのが得策か)」

携帯電話をポケットの中にしまい、後ろにいる部下たちのほうへと向き直る。
彼の表情には笑みがある。事がほぼすべて予定通りに動き、さぞ上機嫌なのだろう。
だが、四和会長には、"あの男"のほかにも重大な目的がある。それは、この『パーティ』がもたらす『プレゼント』。
それを思い浮かべつつ、四和会長は部下たちにこう告げた。

「さて、そろそろ君たちには"もうひとつの仕事"に取り掛かってもらうとするかね」

会長が言うと、屋上にいた部下たちは瞬く間に姿を消す。
いまだ実態のつかめないこの男の野望は、確実にその歩みを進めていたのだった。


…。


「…Bポイントの特殊工作員チームの連中から伝達。俺たちはこのまま待機らしいよ」
「そうですか」

監視員タカダが携帯電話を片手に、監視員へ言葉を伝える。…が、応答をしたのは咲耶だけで、残り二名ほどの監視員は応答すらしていない。
ここはCポイントと呼ばれる場所。『上司』のタカダや有沢咲耶を含めた監視員が、この二つの組織の衝突を見守っていた。
先ほど橋本組の一斉射撃が行われた安澄港ゲートの付近にある建物の細い路地であるが、
鷹森組や橋本組の車両と、そばに積み上げられたコンテナのせいか、ちょうど港からは見えにくくなっている。
携帯電話をポケットにしまいこんだタカダは、不満そうな顔をして、無愛想な態度の監視員(と咲耶)に向けて言う。

「なんだよー。相変わらずそっけないよね咲耶ちゃんは… ってかほかの皆も冷たいじゃないか!」
「……そうやって騒ぐとバレちゃいますよ。マジで死にたいんですか?」

『仕事モード』の咲耶は、タカダに視線だけを向けて冷淡に言葉を返すと、すぐに港のほうへ視線を戻した。

ぬぁぁっ!またきついお言葉をっ!俺上司だよ!?俺一応君の上司なんだよ!?
「いい加減にしろタカダ。うだうだ騒いでないでさっさとマークを続けろ」
「………」

大げさなリアクションでショックを受けるタカダに、金髪にメガネの監視員の女性マキノと、
無言でタカダをにらみつけている、無口で無表情の中年男の監視員、サカモトの二名が追い打ちをかける。

「(はぁ、なんでこんな人がウチの上司なんやろ…)」

ずーん、と暗いムードでブツブツ独り言をつぶやきながらうなだれるタカダを見て、咲耶はため息をつく。
今はこの人のことを気にしている場合じゃない、と双眼鏡を構え、港に停泊している貨物船へと目を向ける。
貨物船の上の鷹森梓と獅子土董子を見て、先ほどの戦闘の一部始終を思い出す咲耶。
――鷹森梓の模造刀は本物で、実は彼女の一族は代々魔物と戦っていたということ。
――獅子土董子は橋本組とのつながりがあった以前に、強大な力を持つ魔物であるらしいということ。
この数時間の間、監視を続けていた彼女に突きつけられた、二人の親友の真実の姿だ。
職業柄表には出していないが、心の中では大きく動揺していた。

「(最近いろいろと非現実的なことがようさんあったけど、これが一番のショックやったかも知れへんわ…)」

いつだったか、獅子土さんが鷹森さんに大声を上げ、本気で怒鳴っていたことがあった。
それからというものの、獅子土さんと鷹森さんの関係は少しギクシャクしている。
もしそれらの出来事がマンガとかに見られるような伏線だったとしたら、そのころから獅子土さんは、
無意識のうちに本能で鷹森さんを敵とみなしていたのかもしれない。と咲耶は考える。
これは根も葉もないマンガ理論であるが、そう考えるとある程度筋は通る。

「――なんや、でっかい秘密を持っとったんは、ウチだけとちゃうかったんやね…」

誰にも聞こえないように、咲耶はこっそりとつぶやいた。

「ところでさぁ、咲耶ちゃん」
おわぁっ!?

ふいに、いつの間にか立ち直っていたタカダはとんとん、と咲耶の肩をたたく。
一瞬ビクゥ!と体が痙攣する。ふとこぼしてしまった恥ずかしい言葉は聴かれていなかっただろうか…。
驚きすぎてマジで心臓が止まるかと思った咲耶だったが、すぐに気を取り直すと、
マキノとサカモトのほうをちらっと見てから、隣に並んできたタカダに顔を寄せて小声で言った。

「……な、なんですか?だから仕事中だっt」
「君は、どうしてこの任務に呼ばれたのか気にならないのかい?」
「そ、それは…」

双眼鏡から目を離して、召集があったときのメンバーを思い出してみる。
このCポイントに配備されたタカダにマキノやサカモト、Aポイントの特殊工作員とともに配備された監視員の面々…、
誰も彼も、財団が誇る精鋭たちである。でもタカダが精鋭のうちだというのには多少引っかかりを覚える咲耶
それに対して、自分は星の数ほど存在するような監視員の中でも、本当に端の端にいるような存在だ。
任務で命を落とそうが落とすまいが決して見向きはされそうにないような存在の自分が、なぜこの任務に就かされたのか…?

「確かに、気になります…、ね。どうして、こんな仕事を私なんかに…」
「さぁな。あの人が考えていることは俺にもよくわからないよ」
「…って自分から切り出しておいてそれですか!?」

だから声が大きいんだって!と言うマキノの怒号と、何か言いたげなサカモトの鋭い視線が飛んでくる。
首だけを向けて睨んでくる二人の姿からは『ニンムハドウシタ、オマエラ』的なオーラが発せられているが、
とりあえず声のボリュームだけを落として話を続ける。

「……タカダさんも知ってのとおり、獅子土董子と鷹森梓の二人は私が監視を任されてたんです。その関係じゃないんでしょうかね?たぶん」

自分で言っていて腑に落ちないところはあるが、無駄話をしていたところを後でとがめられるのが怖いので、やや投げやり気味に咲耶は言う。
心なしか早口な咲耶の言葉を聞いたタカダは、腕を組んで『うーん…』とうなる。

「俺の考えすぎかもしれないけどさ、それだけじゃない気もするんだよ。あー…なんて言うか、もっと大きなことが絡んでそうな気がして…」
「……?」

咲耶は困惑するが、タカダは話を続ける。

「最近、どうも上層部の動きがヘンなんだよな。とくに、咲耶ちゃんが『影の勢力』とか言う組織に襲われてからかな?
 そのあたりから会長は咲耶ちゃんのことを何かと気にし始めたみたいでね」
「はぁ…」

そして、タカダの表情が険しいものへと変わる。

「それに、会長はその『影の勢力』についても何か知っているようだった」
「か、会長が…?」
「そう。だから思ったんだよ。財団の中で、俺たちも知らない"何か"が動き出しているんじゃないか、って――」
ちょっと、二人とも!港のほうを見なさい!なんだか様子が変よ!?

タカダの声をさえぎり、マキノの叫び声が割り込んでくる。
彼女の声に反応し、二人はとっさに港のほうを向く。
だがその瞬間、ドッ!!という衝撃音とともに彼らの体が跳ね飛ばされた。

「「(…ッ!?)」」

両足から重力が消え、天地がひっくり返る。遅れて獣のような咆哮が聞こえてくるが、それに耳を傾ける余裕はなかった。
ほんの数秒間空中に放り出された四人の体は、ドシャァッ!とアスファルトにたたきつけられる。

う…ゲホッ、ガホッ…、な、何や…? 何が起こったんや…?

唇からは血の筋を垂らし、思わず素の口調に戻ってしまった咲耶は、うつぶせのままに首だけをゆっくりと動かして周りを見渡す。
後方にはタカダ、前方にはマキノとサカモトを確認できたが、どうやら全員気絶しているようだった。
最初は爆発か何かが起こったのかと思った咲耶だが、自分を含め四人の人間が倒れていること意外には風景に変わったところはない。

「う、動けるのはウチだけや…、早う皆を起こしたらんと……」

そういって体を動かし、立ち上がろうとするが、何度力を入れても立ち上がることができない。
体に大きな圧迫感を感じる。まるで誰かが上から自分の体を押さえつけているかのように。
そしてこの圧迫感の正体は、禍々しくて強大な殺気である。
突如港から放たれた殺気によって、四人の体はいとも簡単に吹き飛ばされたのだ。
しかし、一度この殺気をどこかで感じたことがある気がする。
記憶を順々に手繰っていくと、やはりあの教室での出来事に行き着いた。とてつもなく嫌な予感がする…。

「そうや、双眼鏡…っ」

はっと先ほどまで持っていた双眼鏡を思い出した。飛ばされた衝撃で落としてしまっていたのだ。
港から地面へと視線を落とすと、最初に立っていたところの近くに双眼鏡が落ちている。
幸いにも壊れておらず、手を伸ばせばギリギリ届く距離にあるようだ。
ズリ、ズリ、と少しずつ体を引きずっていき、なんとか双眼鏡を掴み取る。
重圧によって震える手を制して、殺気が放たれているであろう場所…港に停泊している貨物船のほうへと視線を向ける。
そして、彼女は目にしてしまった。

「んなっ…!?」

遥か数百メートル先の貨物船の甲板。
黒スーツの男たちが見守る中、満身創痍で日本刀を持った少女と、巨大な虎のような獣が対峙している。
注視すべきなのはその獣の『』。
……すでに異形と成り果ててしまった親友の姿が、そこにあった。



市に虎を放つ如し

第十六話 目覚めの獅子



「ついに…目覚めてしまったのか…」

異形となり果てた董子を見つめ、満時がつぶやく。
その場にいた鷹森組の者や、橋本組の者もざわついた。
今の董子からは禍々しい殺気が放たれ、その威圧感は並大抵のものではない。
まるで地球の重力が数倍にも増し、無理やり床に押しつけられるような重圧を感じさせられる。

「梓! 董子ちゃん―― いや、今の彼女は中国の伝承にも登場する魔物の『』!
 こいつを解き放ちさえすれば… この街が、…いや、被害はこの街だけじゃあすまなくなる…」
「………っ!」

呼吸を乱したまま、満時の声に耳を傾けるが、梓は答えない。
梓は先ほどのメリッサとの戦いで満身創痍であり、すでに立っているのがやっとの状況だ。
この勝負の結果は火を見るより明らかではある。
梓の心境は言うと、本当は董子とは戦いたくはない。たとえ彼女が魔物であっても、梓にとっては大切な親友なのだ。
董子と接するうちに、いつしか彼女が本当は魔物であることには気づいていた。
だが、その時にはもうそんなことは関係なくなっていた。
退魔の使命にそむいてでも、彼女との友情を守り続けたかったのだ。

「……でも、やるしかない…!」

目を閉じ、刀を握る手に力を込める。
しかし、彼女の心は大いに揺さぶられていた。
使命と友情。そのどちらをとっても代償は大きい。

「早く構えなさいよ……こっちは早くあんたを殺したくて殺したくてウズウズしてんのよッ!

""と化した獅子土董子が口を開く。
その口調からは今までの彼女のものとは違い、あからさまに憎悪と殺意が込められたものとなっている。

「…うん、わかったよ」

一度深呼吸し、気を落ち着け、低い声で言い放つ。
いつかはこうなるとはわかっていた。けど、現実を受け止めたくなかった。
たとえ、この力がかなわないとしても、彼女を止められるのは自分しかいない。
このような運命を決定づけた神様を呪いたい。

「……行くぞ」

董子が前足を半歩手前に出す。
覚悟を決め、梓も身構える。

あずさあああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁァァァァァッ!!!

バゴオオオオオオオオン!!!

咆哮とともに前足から繰り出された重い一撃が、梓に向けて放たれる。
とっさに後ろへ飛びのいた梓だが、その衝撃は、数十トンものの貨物船を揺さぶらせ、鼓膜が引き裂かれるような轟音を響かせる。
さっきまで梓が立っていた甲板は、それがただの紙切れであるかのようにいとも簡単に引き裂かれていた。
その場にいた誰もが言葉を失う。

「(す、凄い威力…!あれをマトモに食らっていたら、ひとたまりもなかったかもしれないね…)」
ボサッとしてんなァッ!!
「ッ!!」

間髪いれずに、逆の足から次の一撃が繰り出される。
自然と体が動き、放たれた一撃を刀で受け止めた―― はずだったが、
すでに梓の体は数メートルほどはじき飛ばされていた。

「やばッ…!」

しばし驚愕していた梓だったが、空中でくるんと回転し、体勢を立て直して着地する。
着地と同時にその衝撃が全身の傷口に響き、襲いくる激痛に顔をゆがめた梓。
気を抜けば崩れそうになる体を、なんとか精神力でつなぎとめる。

「さっさと死ねばいいのにねぇ…。いつまであがいてるつもりなのよ」
「……」

董子が挑発をする。
だが、梓はその言葉には動じない。毅然とした態度を崩さず、再び刀を構えなおす。
その反応を見て、董子は不快そうな表情を浮かべた。

「……チッ。面白くないわね」

董子はそういいながら、ちょうどそこにあったコンテナに、ガッ!と足をかける。

だったらこれはどうよッ!!

ニヤァと嗜虐的な笑みを浮かべた董子は、数トンはあるであろうコンテナを思い切り蹴り飛ばす。
とっさによけのモーションへ入ろうとした梓だが、すぐに自分へと向けられたものではないことに気づいた。
後方には、怪我人の治療をしている鷹森組の組員の姿がある…!身動きが取れない彼らに向けて、弾丸のような速度でコンテナが向かってゆく。

「くっ、おおおおっ!!

地面を蹴り、弾丸の速度でコンテナの横に飛び出した梓は、術式で強化された脚力でコンテナにまわし蹴りを食らわせる。
梓の蹴りによってわずかに軌道を変えられたコンテナは、シュルシュルと回転しながら海へと落ち、大きな水柱をあげた。
ズザザザッ!と地面を滑りながら着地した梓は、董子をにらみつける。
 
「……董子ちゃんらしくないよね、こんなマネするなんて」

それを聞いた董子は再び嗜虐的な笑みを浮かべた。

「あぁ、何も狙いがあんただけと言った覚えはないわ? ちゃんと最初に言ったわよ?『貴様等を皆殺しにする』ってねェッ!!」

続けて二発、三発とコンテナが蹴り飛ばされる。
梓は董子に近づきつつ、刀でコンテナを切り刻み、蹴り飛ばし、周囲にいる鷹森組や橋本組の人間に被害が及ばないように対処する。
だが、この行動はもともと限界だった梓の体力をさらに奪っていく。

「ほらほら、どうしたの?動きが鈍ってきたわよ」
「くぅっ…!」

梓はコンテナを弾きながらも、董子の動きに注目していた。
ひとつのコンテナを蹴り飛ばした後、次のコンテナを蹴ろうとするときに一瞬の間が生まれる。
彼女はそれを見逃さなかった。

そこだッ!!

ザンッ!

「おっと」

一瞬で距離を縮めた梓が放った渾身の袈裟斬りを、董子はその巨躯に似合わない軽やかなモーションでかわしきる。
攻撃が外れたとわかると、梓は悔しげな表情を浮かべ、バックステップで再び距離をとる。

「フフッ、あんたがもうちょっと元気だったら私も危なかったかもねぇ…」

正直、これで傷を負わせられなかったのは大きな痛手だ。
脳からは指令が出されているものの、徐々に体がついてこなくなっているのを感じていた。
これ以上戦闘を長引かせれば、勝機は完全になくなってしまうだろう。
次の一撃で決めるしか、ない。

「今度は…、こっちからいくよッ!!

地面を蹴り、ギュンッ!と猛スピードで正面から董子へと突っ込む。
刀を鞘におさめ、抜刀の構えをしている。董子の懐へもぐりこみ、一撃を決め込むつもりだろうか。
それを見た董子は余裕の表情を浮かべ、攻撃態勢をとる。

血迷ったかぁ!?正面から来るなんて、馬鹿馬鹿しいにもほどがあるのよォッ!!

董子は振り上げた自らの前足を梓の後頭部へと狙いを定め、勢いよく振り下ろす。
それは頑丈な甲板を貫き、バゴォォンッ!!と、貨物船は大きな悲鳴を上げる。
これではさすがの梓も肉塊になり果てただろう、と勝利を確信していた董子だったが、

「…ッ!! 何ぃっ!?」

その表情は一変し、驚いて自分の足元を見る。
響いた音は頑丈な鉄板のもののみで、肉をつぶした感覚を得られなかったのだ。
それもそのはずで、そこには仕留めたはずの梓が存在していないためである。

「ちぃッ!あずさは――」

言いかけて、董子はすぐにはっとする。そもそもなぜあずさは正面から突っ込んできた?
いくらなんでもこの状況で馬鹿正直に正面から突っ込んでくるのはおかしい。
よほど慢心を見せていない限りは反撃を受けないはずがないだろう。無策にもほどがある。
だけど、あえて正面から突っ込んで、私が反撃するのを見越していたとしたら…。
これは……私を油断させるための…作…戦…ッ!?

「――そうだよ」

声が聞こえた。董子は反射的に首を左の空間へと向ける。
董子の瞳がとらえたものは、すでに自らと同じ高さまで飛びあがり、刀に手をかけ、抜刀せんとする梓の姿だった。
梓の唇が動き、退魔の刀・鷹守宗孝の白い刀身が徐々にあらわになる。
空中で電光一閃を決めようとしていたのだ。

この瞬間、世界から音が消えた。

スーパースローカメラを通して見た映像のように、一瞬の挙動が数十秒にも感じられる。
つい先刻、スナイパーが狙撃を行ってきたときにも感じた感覚。董子はまたもそれを味わっていたのだ。
即座に反撃をしろ、と脳内では指令が出ているが、その電気信号よりも梓の動作のほうがはるかに早かった。
なすすべもなく梓の姿を注視していると、顔の端のほう―― 目じりに近い部分で何かが光っている。
ほどなく宙に舞ったそれは、二粒、三粒、と月光に照らされ、小さな輝きを放っている。
額から零れ落ちた汗が雫となったものだろうか?

……いや、これは汗ではない。





涙だ。





梓の両目には溢れんばかりの涙が浮かんでいた。
決意を決めたはずの瞳は揺らめき、滲んだ景色からは董子の姿をはっきりと捉えることはできていなかった。
放たれた必殺の一撃は、董子の顔を掠めるようにして、深夜の暗闇を斬り裂いた。
数秒遅れ、ズオオオオオオオッ!!と風が巻き起こる音が聞こえてきた。空間が斬られた余波で、小さな嵐が吹き荒れたのだ。
必殺を外し、完全に無防備となり、慣性のままに向かってくる梓の腹部をめがけて、咆哮とともに董子は渾身の一撃を繰り出す。

おおおおおおおおオオオオオオオオオオオッ!!!!

ズドオオオオオオオオオオンッ!!!

ごぉぁッ…!!

梓の腹部に董子の鋭い爪が深く突き刺さった。
肺からはすべての空気が抜け、大きな血の塊を吐き出す。

…あ、梓ぁぁッ!!

その場の全員が戦いの行く末を見守っていた中、満時が一人叫んだ。
『組長!』と部下たちが制止をするが、それを振り切り、おぼつかない足取りで梓のもとへと向かう。
錐揉み状に落下していく梓の体は、甲板の上を二回、三回と跳ね転がった。
遅れて、ヒュンヒュンと回転しながら落ちてきた刀も、甲板に当たってむなしく鉄板の上を転がっていく。
おぼつかない足取りでたどり着いた満時は、地面に転がった娘を抱きかかえる。
今の彼の表情はまさしく、娘を案ずる一人の父親のものであった。

しっかりしろ、梓!!梓ッ!!

声が裏返るほどの大声で何度も呼びかけるが、梓はぴくりとも動かない。
その間に、重い足音を鳴らし、董子がじりじりと詰め寄る。
部下たちは立ち上がり、董子の前に立ちはだかり、武器を構える。だが、それを橋本組の者たちがとどめようとする。

満時は、部下たちの行動に心の中でで感謝しつつ、梓の姿を改めて確認した。
攻撃を受けた腹部からはとめどなく血が流れ、刀を握っていた右手は、力なくだらんと垂れ下がっている。
術式で体を強化しているとはいえ、それを超える威力の攻撃を受ければひとたまりもない。
血にまみれ、ぼろぼろになり、もう原形をとどめていない退魔の正装がメリッサおよび董子との激戦を物語る。
さらに、満時は梓の両目に涙が流れた跡があるのに気づいた。娘がを討ち損じたのは、董子に対する情が働いたせいだと満時は確信する。
満時は、この"抗争"に最後の最後まで反対を続けていた梓の姿を思い出す。
そんな中で董子に刃を向け、戦っていた梓の感情は並々のものではなかったのだろう。

「……もう、あずさは動けないみたいね」

すぐ後ろから声が聞こえてくる。気がつくと、董子がすぐそこまで迫っていた。
かつてメリッサとの戦闘で負傷した満時の足では、梓を抱えて逃げることはできないだろう。
董子には顔を向けないまま、満時は言う。

「君に梓を殺させはしないさ。娘を護ると決意した父親の力は強いぞ?」

満時はにやりと笑う。
だが、董子はいまだ十分な力を残している。この二者の体を貫くのは造作もないなことだ。
もちろんそれは満時も理解していた。この言葉も、実質的には満時の精一杯の強がりでしかない。
それでも、自分が盾になれば梓への致命傷は避けられる可能性がある。
そのためには、自らの命を賭してもかまわない。

「ふん、言うじゃないの。あんた自身は満足に戦えないくせに」

対する董子は不機嫌そうに満時の言葉を切り捨てる。
そして、ゆっくりとしたモーションで右の前足を大きく振り上げた。

「さぁて、まずは私から橋本さんを奪ったあんたたちを…」

満時は娘の盾になるように、強く抱きかかえる。

地獄に送ってやるよッ!!

ズォォォッ!!と、風を切る音とともに董子の前足が振り下ろされた。
先ほどとは比べ物にならないほどの殺気を込められた強烈な一撃。
無情にも、それは今まさに鷹森親子に襲い掛かろうとしていた。
…はずだった。



やめろぉぉぉーーーーッ!!!



ゴォォォォォッ!!!という爆発音が響く。
その瞬間、男の声とともに鷹森親子と董子の間に巨大な火柱が現れた。

「ぐっ…!」

爆風とともに真昼のような閃光を放つそれは、攻撃を仕掛けていた董子のバランスを崩させた。
よろけながらもジャンプで後ろに飛びのき、チッと舌打ちをする。
距離をとって構えなおすと、董子は眉間にしわを寄せ、炎の中心点を忌々しげににらみつけた。
やがて、火柱は中から風が吹き荒れたように四方へ散り、中からは一人の男が現れる。
梓を抱いたままの満時も、首を向けてその男を見つめる。

「お前は…」

焼石徹。いわずと知れた焼石カンパニーの社長で、精霊イフリートの最上位『インフェリーノ』である男。
激闘のさなかに現れたこの男は、緊迫した表情でこう叫んだ。

今は争っている場合じゃねぇんだ!!今すぐこの戦いをやめろ!!





次回へ続く…。


作:黒星 左翼