市に虎を放つ如し




こうして、抗争は終結した。
時刻は夜明け前。ほんの数時間前まで、この安澄港では鷹森組と橋本組の二大組織の激闘が繰り広げられていたのだ。
負傷者の搬送を優先し、まだ事後処理の行われていないこの港には、激闘の傷跡が生々しく残っており、
地面に付着した血痕、めくれ上がったアスファルト、破壊され、散らばったコンテナの残骸、衝撃でゆがんだ貨物船の船体など…、
それらは端的にこの抗争の凄まじさを物語っている。
現在無人となった港には、ただ打ち寄せる波の音が響いているだけだった。




「こちら、Aポイントで待機のコカド。橋本組および鷹森組の組員の撤退を確認、安澄港へ潜入を開始します」

……否、訂正しよう。無人だったはずの安澄港の中で、薄闇にまぎれて蠢く三人の人影が確認できる。
彼らは闇にとけるような黒色の防護服に身を包み、目には暗視ゴーグルをかけている。
音もなく港の中を移動し、いとも容易く貨物船にたどり着いた彼らは、残った組員がいないことを念入りに確認し、一目散にタラップを駆け上がる。
ほどなくして船腹甲板に出た彼らは、最も激しい戦闘が行われ、また抗争終結の場にもなったこの抗争の要といえる場所、船首甲板を目指す。
激しい戦闘の影響で照明が落ち、周りが暗くて見えづらいが、大量の血痕が残ったままの甲板は衝撃や熱で変形している箇所が多く、
暗視ゴーグルをかけていなければ、どんなに注意深い人物であっても、つまずいたりせずに歩くことはままならないだろう。

『例の場所に到着したか』

彼らの耳につけてあるイヤホンから男の声が聞こえてくる。声の主はやはりあの四和会長だった。
もうお気づきかもしれないが、防護服を着た人物の正体は四ツ和財団の特殊工作員。抗争が終わるまで身を隠していたのだ。
船首甲板にたどり着いた彼らは足を止め、特殊工作員の一人・コカドが会長の通信に応答する。

「所定の位置に到着しました。次の指示をお願いします」
「そうだな…。では、『プレゼント』の回収を行ってくれ。
 できるだけ迅速に頼むよ?もしかすれば、事後処理のために誰かが戻ってくる可能性があるからな」
「了解しました。では、採取を開始します」

通信が終わると、コカドの後ろにいた男が手に持っていたケースを甲板の上に置き、中身を開ける。
中にはガラス管とスポイト、もうひとつ何かの液体が入ったガラス管が人数分用意されていた。
三人の工作員はその場にしゃがみ込み、ところどころに付着している血にガラス管の中の液体を数滴落とす。
すると数秒もたたないうちに、乾ききった血は鮮血のようになり、工作員たちはそれをスポイトで採取する。
この間約二分。てきぱきと血液を採取した工作員は用具をケースの中に戻し、工作員コカドが会長に通信を行う。

「『プレゼント』の採取を完了しました。次の指示をお願いします」
『いやぁご苦労だった。任務は完了だ。次は港のゲートへ向かってくれ。そこに車を待機させている』
「……了解しました」
『君たちの働きにはいつも感謝しているよ。これからも私の手足となっていい働きを見せてくれたまえ』

ブツッ、という耳障りな音が響き、通信は切断された。
それが合図だといわんばかりに、工作員コカドたちは行動を開始する。

それからまた数分して、工作員たちはゲートに停めてあった黒いワンボックスカーに乗り込んだ。間もなく低い唸りを上げて車は発進する。
Cポイントと呼ばれていたこの場所には監視員が数人いたのだが、彼らはもうすでに引き払っているようだった。
任務も終わったことなので、工作員コカドは座ったまま防護服を脱ぎ、大きく息を吐く。
ちらっと横目で見てみると、隣の二人の工作員も暑苦しい防護服を脱いでいる最中だった。
結局、任務中に鷹森組か橋本組の者が戻ってくることはなかったようだ。と、工作員コカドは心の中で安堵する。
しかしそれは建前に過ぎず、正しくはこの場から逃れられることに安堵しているのかもしれない。
同じく車に乗り込んだほかの二人の工作員もおそらく同じことを思っているのだろう。
言葉は交わさなくても、工作員の精鋭として研ぎ澄まされた感覚は、平常時の彼らとはまた違う雰囲気を感じ取っていた。

「(くそっ、なんだってんだよ…!あんな化け物、漫画でしか見たことねぇぞ…。
  もしあんなのに襲われていたらと思うと今でも身の毛がよだつぜ。命がいくつあっても足りねぇよ…)」

もともとこの男たちの任務も、咲耶ら監視員と同じく、この抗争の中で焼石カンパニーと橋本組の癒着の決定的な証拠をつかむことだった。
ところが、彼らには土壇場で別の任務が与えられた。
Aポイントに送られたコカドら三人の工作員は、この甲板で戦っていた獅子土董子、鷹森梓らの血液を採取しろという指令である。
四和会長はこの血液を『パーティのもたらしたプレゼント』と称していた。

「(しかもあの化け物たちの血液なんか採取して、会長は本当に正気なのか…?)」

会長は、化け物の正体についていろいろと知っているような口ぶりをしていた。
以前からこの人には何かあるんじゃないかとは思っていたが、その予想は正しかったようだ。……できれば外れてほしい予想であったが。
得体のしれない悪寒から、体中の穴という穴から嫌な汗が噴き出てくる。

「(俺たちは……いったい何に関わっちまってるっていうんだよ…!?)」

特殊工作員の精鋭として、身を粉にして財団に尽くしてきたコカドだったが、今まで生きてきた中でこの日ほど後悔したと思ったことはなかった。



市に虎を放つ如し

第十八話 娘の想い/父の想い



抗争終結から数日。ここは安澄市中央区のとある病院。
ガチャッ、ガチャッと杖の音を鳴らしながら、朝の日差しが差し込む廊下を足早に歩いている強面のスーツの男がいた。
鷹森満時。安澄市に本拠地を置く巨大なヤクザ・鷹森組の長である。
すれ違う患者や看護師からは怪訝な顔をされ、露骨に避けられたりもしていたが、彼はそれを全く気に留めずにずかずかと歩き続ける。
この男がここにいる理由は簡単で、去る橋本組との抗争で橋本メリッサおよび獅子土董子との激闘により、
大怪我で意識不明だった愛娘・梓が、意識を取り戻したという連絡を受け、いてもたってもいられずに病院へ訪れたというわけだ。
彼は抗争後の夜のこの病院での出来事を回想していた。



深夜の病院に、救急車のサイレンと、足音が響きわたる。
この病院には負傷した鷹森組の組員が大勢搬送されていた。
ストレッチャーに横たわった彼らの体は、看護師や医師たちによって次々と集中治療室へ運び込まれていく。
そんな病院の一角、手術室の前の廊下のソファに満時は腰かけていた。
彼は深くこうべを垂れて頭を抱え、手術を受けている娘の身を案じていた。
ふいに、手術室の扉が開く音が聞こえた。満時はバッ!!と頭をあげてその方向を振り向くと、
一か所だけ跳ねている癖毛が特徴の、めがねをかけた茶髪の女性医師がつかつかと満時のもとへ歩いてくるのが見えた。

「楸先生!!娘は……梓は助かったのか!?」

満時は思わず立ち上がって跳ね毛の女性医師に詰め寄る。
しかし楸と呼ばれた女性医師はそれにも動じず、メガネをくいっと上げて淡々とした口調で満時に言う。

「…えぇ。手術は成功よ。梓さんは助かったわ」
「そうか…! ああ、よかったぁ…!」

安心したのか、『うっ』と背中の痛みを感じてよろよろとソファの上にへたりこむ満時。
急に立ち上がったためか、爆風で飛ばされてコンテナにたたきつけられたときに痛めた背中が悲鳴を上げたのだ。
その様子を見た女性医師は、満時のスーツからところどころ見え隠れしている包帯やガーゼを見ながら、はぁ、と息を吐いた。

「鷹森さん、あなたもけがをしているのよ?あまり無理はしないでほしいわね」
「何、これしきの痛みで音を上げているようでは、極道の長は務まらんよ」

ポケットから取り出したハンカチで額の汗をぬぐいつつ、満時は答える。
これからも焼石の会社や橋本組と戦っていく決意をした手前、こんなことではいけない…、と、満時は心の中で自分に言い聞かせた。

紹介が遅れたが、この女性医師の名は天野 縁(ゆかり)。楸(ひさぎ)というのは旧姓で、医者の仕事を行う時に使っている名義である。
同じく医者の夫とともに数多くの患者の命を救っており、『稀代の名医』として広く名が知られている。
また、鷹森組組員や娘が(主に魔物との戦いで)大怪我をした際にもたびたびこの病院に担ぎこまれることがあり、
そのときに彼らの処置を担当することが多いため、鷹森組とはいろんな意味でかかわりを持っている。
(実は彼女の息子が梓の姉とお付き合いしていたりいなかったり…)

「まず、おおざっぱに言わせてもらうけど…。梓さんの状況は…… 正直、普通じゃあり得ないレベルの大怪我よ。
 身体のいたるところに打撲と裂傷、頭も強く打っているようだし、腹部もえぐられていて、失血もひどかったわ。
 ただ… これだけの大怪我にもかかわらず、内臓や骨に殆ど損傷がなかったのはある種の奇跡かもしれないわね」
「……」

楸医師は、手に持っているカルテをぺらぺらとめくりながらそう言った。
幾重にも防護の術式を施していたとはいえ、梓が身体に受けていたダメージは深刻なものだった。
二度にわたる激闘の中で、梓は普通の人間ならば一撃で即死しているほどの威力の攻撃を何度も受けていたのだ。
一応、楸医師は彼らの事情を知る数少ない人物の一人だが、お互いあまり深くは干渉しないことを決めている。

「ともかく、今は絶対安静ね。医者として、私たちもできる限りのことはさせてもらうわ」
「……あぁ。どうか、娘や組員たちをお願いします、先生」

力強くうなずく楸医師に満時は深々と頭を下げ、彼はその場をあとにしたのだった。

…。

短い回想を終えると、満時の目の前にはひとつの病室が存在していた。

「………ここが、梓の病室か」

念のため、間違いがないように扉の横の名札で娘の名前を確認する。個人病室のため、ほかの患者の名前はない。
そして満時は大きく深呼吸をして、扉をノックする。数秒間が開いた後に、『どうぞ』という声が聞こえた。

満時は部屋に入ると、真っ先に娘の姿を確認した。
病院らしく清潔感のあふれるベッドの上。そこには愛する娘の姿があった。
頭には包帯を巻いており、腕や腹部からは点滴や何かの機具の管が何本も伸びている。

「ぁ… お父さん」

梓は父に向けて笑みを作ると、よいしょ、と小声を出してゆっくりと体を持ち上げようとした。
それを見た満時は目を丸くしてあわてて梓の元へ駆け寄る。

ぬぉ!?だだだだ大丈夫なのか梓ッ!?無理はするなよ!?もしお前に何かあったらお父さん超泣いちゃうかr
「…病室では静かにね」
……ハイ。

そっけない娘の態度にがっくりとうなだれる満時(自業自得)だったが、
娘が無事だということをこの目で確認することができたため、ホッと息をなでおろした。
テーブルの上にお見舞いの品(バナナ)が入ったバスケットをおくと、満時は来客用のパイプいすにドスッと腰掛ける。

「梓、身体の調子はどうなんだ? まだどこか痛むのか?」
「ううん。まだちょっと痛いところもあるけど…、目が覚めたら結構マシになってたよ」

楸医師によれば、全治数ヶ月だと思われていた梓の大怪我がものすごい速さで快方に向かっているという。
それはおそらく、彼女の身体に施していた防護の術式の名残だろう―― と満時は思っていた。
この調子だと、早くても一、二週間で退院できるらしい。

「お父さんこそ、けっこうムリしてきちゃったんじゃないの?」
うっ…。む、娘の大事とあらば、どんなときでもすぐ駆けつけるのは父の務めだからな!…ハハハ」

梓に図星をつかれ、ぽりぽりと頭をかきながら満時は苦笑いする。
実際、今回の抗争の後始末やら怪我で欠員が多くなってしまった組織の建て直しやらで、今の鷹森組はてんやわんやの状態のため、
休む暇もなく、せこせこと山積みの問題を処理していた満時には、娘の見舞いに行く余裕はあるはずもなかった。
さらに抗争で負った怪我もズキズキと痛む。そんな状態でも、自分のことや組のことを二の次にして、この男は本気で愛娘を心配しているのだ。

「…まぁ、私のことはいい。お前が元気ならば、私はそれで満足だ」
「ふふ。お父さんってば、いつもそうだよね」

いつも通りの父の姿を見て、梓は笑う。
それからは他愛のない話題が続いていたのだが、梓にはどうしても気になることがあった。彼女は頃合いを見計らって、その話題を切り出す。

「ねぇ、お父さん。あれから、…その、董子ちゃんは、どうなったの?」

窓の外に視線を移し、梓はややためらいがちに口を開いた。
あんなことがあったとはいえ、やはり梓にとって董子は大親友。彼女の安否が気になっていた。
そんな娘の感情を汲み取ったのか、真剣な面持ちで満時も口を開く。

「ああ……、あの後はいろいろあったが、董子ちゃんは無事だ。今のところは、あの子には手を出す必要はないだろう」
「本当…!?」
「ただし。またあの子が暴れるようなことがあれば、それなりの対処をさせてもらう。橋本とは、そういう形で手を打つことにした」
「そっか…」

退魔の一族として本当は獅子土董子の存在をやすやすと見過ごすわけにもいかないのだが、
渉の腕に抱かれ、幼子のような表情で眠っていた董子の姿を思い出すと、彼女を手に掛ける気にはなれなかった。
邪気も完全に抜けており、そこにいたのは、という魔物ではなく、一人の少女… 梓の親友だったのだ。
今回は特例だ、と念のため満時は付け足すが、それでも梓は心底安心しているように見える。

「それにしても……、いや、ううん……

何かを言いだそうとして、梓は口ごもる。

「ん、どうした梓? どれ、言ってみなさい」

満時はそんな梓を見逃さず、優しく声をかけた。
梓もこくん、とうなずき、慎重に言葉を選びつつ語り始めた。

「あのね、お父さん。怒らないで聞いてね。
 退魔の一族として……あたしたちがやっているコトって、本当に正しい…のかな…

だんだんと弱くなっていく梓の言葉に、満時の眉がぴくっと動いた。
だが、この言葉を言ったことで押さえていた感情のタガが外れたのか、梓は感情のままに続ける。

もしかしたら、今まで倒してきた魔物の中にも…、
 橋本さんとメリッサのように、人間と一緒に生きてきた魔物もいるかもしれない!
 董子ちゃんだってそうよ!? ついこの前まで、皆と学校に通って、バイトして、お話しして、一緒に笑って…!
 もしもあたしたちが何もしていなかったら、董子ちゃんはこのまま普通の人間と変わらず、
 暮らしていけたかもしれないのに……!!
あたし……どうしたらいいかわからなくなっちゃったよ…

大粒の涙を流し、唇をかみしめる梓。
もし、自分が退魔の一族ではなかったら、董子と戦うこともなくずっと普通の人間としての友達でいれたし、
種族を超えて愛し合っていた橋本渉とメリッサの仲を引き裂くこともなかったのだ。
一通り梓の思いを聞き終えた満時は、ゆらりと立ちあがると、左手で布団を思いっきりバンッ!!と叩く。

「梓。前にも言ったが、私たちは退魔の一族だ。
 長い歴史の中で、お前の姉も、母も、私も、私の父も、人々を守るために命を賭して戦ってきたんだ。もちろんお前もそうだ。
 仮に、本当に人間と魔物が共存できていたとすれば… 私達のような存在は必要ないのではないか?」
「それは…」

満時は、強い口調でさらに続ける。

「たとえ心が優しい魔物がいたとしても、本能には抗えず、いつしかヤツらは人に牙を剥くだろう…。
 …だから、どんな魔物であろうとも必ず倒さねばならん。私たちが退魔の一族である限りはな。これは私たちに与えられた使命なんだ…!」

言い終えて、満時はハッとした。
自分はこんなことを議論するためにここに来たのではない。

「……すまん、少し熱くなりすぎてしまった。本当はお前をねぎらいに来ただけなのにな」
「いいんだよ。あたしも、本当のことが言えてすっきりしたし」

パジャマの袖で涙をぬぐいつつ、梓はふたたび笑顔を作る。
獅子土董子や橋本渉とメリッサの姿を見て、魔物と共存できるかもしれない、と思った梓の主張も、
人々を守るためにはどんな魔物であっても倒さなければならない、という満時の主張も、どちらも間違ってはいないのだろう。
しかし、正解なんて誰にもわからない。なぜならこの世に本当に"正しいこと"などは存在しないのだから。

「全く、梓と言い、しとみと言い…お前たち姉妹は、樒に似て優しい心を持っているな。それならば迷うことも無理はないのかもしれん。
 お前はまだまだ若いんだ。私とは違って、時間はいくらでもある…。たくさん悩んで、その末にお前なりの答えを見つけ出せばいい」

そう言って、満時は梓の頭を優しく撫でた。梓もこくこくと満時の言葉に頷く。
今はまだ答えは見つけ出せないが、いつかははっきりと答えを導き出す。それまでは自分の役割を果たさなければ、と梓は心に誓った。
(ちなみに最後の一言は一部鷹森しとみの言葉からの引用だが、満時は黙っている)

ふと、満時は時計を確認すると、話し込んでいたうちに結構な時間がたっていたことに気づく。
実はお忍びで抜け出して病院にきているため、長居すれば部下たちも満時がいないことに気づいてしまうだろう。

「(む。ちょっと長居しすぎたな… 抜け出したことがばれないうちにとっとと退散するか)」

そう思いながら席を立ち、そそくさと病室の出口に向かおうとする。
それを見た梓はごしごしと残りの涙を拭うと、名残惜しげな表情で満時を呼びとめた。

「今日はお見舞いに来てくれてありがとう、お父さん。……できれば、もうちょっと一緒にいたかったかな」
おぉぉぉ!愛しい梓よ…。寂しかったらいつでもそこに置いた携帯で呼んでくれていいんだぞ?すぐ駆けつけて添い寝してやるかr

帰 れ

「……うぅッ!ひどいぞ梓ぁ!昔はしとみとも一緒に皆で添い寝してたのにィッ!!
今と昔じゃ違うんだよッ!!

ぬがぁぁッ!!と、娘の言葉に本気でショックを受け、弾丸で撃たれたように崩れ落ちる満時だが(念のためですが一応これでも彼は極道の長です)、
壁に手をつき、ぜえ、ぜえ、と息を荒げながらも何とか持ちこたえた。

「さ、最後に言い忘れるところだった…。偶然が重なったとはいえ、メリッサを倒してくれて本当にありがとう。
 お前はよくやった。母さんの墓前ではいい報告ができそうだよ。
 ……おっとそうだ!退院祝いには盛大な宴会を行うぞ。そうと決まれば帰ってからさっそく準備をせねばな♪」

その前にやらなければいけないことはちゃんとやってね、という梓の忠告を聞き、満時は上機嫌で病室を去っていった。

…。

梓の見舞いを済まし、ガチャッガチャッと杖の音を鳴らしながら、先ほどよりもやや早いペースで、満時は廊下を歩いている。
その表情には冷や汗とともに焦りの色が見えていた。

「(まずいぞ…。なんとなくだが誰かもうすでに気づいている気がする!もしかすればこの病院まできているかもしれん…)」

時刻はお昼前。なんだかんだで想定していた以上の時間を過ごしてしまった満時である。
だが、そんな懸念とはよそに誰とも出会うこともなく、病院一階の廊下までたどり着いた。その廊下を抜ければ病院のロビーである。

「(ふう、ここまでは誰とも出会わずに済んだな。なんだ。意外と誰も気づいてな――)」

心底安心して廊下を歩こうと目線を前に向けたその時、彼はついに遭遇してしまった。
廊下の奥で見慣れたスーツ姿の男が仁王立ちしていた。その男は金髪の痩身で、耳にピアスをつけている。満時はおもわず『あっ』という声を出してしまう。
その男は、超早歩きで遠くからもわかるほどの鬼のような恐ろしい形相でズカズカと接近し、
おもむろに満時の胸ぐらをつかむと、ダイナマイトが爆発したかのような大声で彼に怒鳴り散らした。

ちょっとアンタ仕事放っぽりだしてここでなにやってんだ
 どんだけ俺たちが苦労してたのかわかってんのか馬鹿コラァァァァァアッッ!!!

「おう篠崎。…病院では静かにな」
……ハイ。

…。

そんなこんなで、場面は鷹森組幹部の一人、篠崎が運転する車の中に移動する。

「……もう、本当にいい加減にしてくださいよ組長。お嬢が目を覚ましたって聞くと、絶ッッ対に病院に行くだろうなと思っていたら、案の定ですよ。
 誰か護衛をつけて病院に行くのならまだしも、一人だけで病院に行くなんて。もっと自分の立場を理解してもらえませんかい?」
「いやぁ、スマンスマン。梓の無事をこの目で確認しない限りは仕事も手につかなかったのでな。帰ったらバリバリ働くぞ!」

この男が組長で本当に大丈夫なんですかい…とため息交じりに鷹森組幹部・篠崎がぼやくが、上機嫌の満時には全く聞こえていないようだ。

「ときに篠崎よ」
「なんですかい?」
「あの時、橋本と焼石が話していた『ロード』という言葉… お前はどう思う」
「『ロード』…? うーん……。俺にはちょっとわかりかねますね…」

あの抗争で、満時は初めて『ロード』という単語を耳にした。
詳細はまったくもって不明。ただ、橋本組と焼石カンパニーがその『ロード』と呼ばれる存在を求めているということしか情報がない。

「そして…、獅子土董子や、梓のことも『ロード』の一人だと言っていた」
「お嬢も、ですかい?」
「ああ…」

いぶかしげに問う篠崎の言葉に、満時は頷く。

「その『ロード』を集めることによって、何かよからぬことを考えている可能性も否定できん。だが、それについては不明な点が多いのが現状だ。
 だから、一段落ついた後、我々も『ロード』について調べてみることとしよう。少しはやつらの思惑について何かわかるかもしれん」

満時ははっきりとした強い口調で言うと、篠崎も力強く頷いた。

「わかりました。部下たちには後ほど連絡を入れておきます」
「うむ。任せたぞ」

そう言うと、満時は車の外の景色をちらりと眺める。
繁華街の歩道には、平日の昼間だというのにたくさんの人であふれかえっていた。
そんなありふれた日常の様子を見た満時は、先ほどの言葉の最後に一言付け加えた。

「この地に暮らす人々の、平穏な日常を守るためにも、な」

『人々を守ること』。それが退魔の一族・鷹森満時の行動理念である。


…。


場面はあれから十数時間後の夜の病院へと戻る。
すやすやと眠っていた鷹森梓は、何か物音がするのを感じてゆっくりと目を覚ました。
あたりはすでに真っ暗で、病院内の消灯時間はとうの昔に過ぎていた。
上体を起こし、んん…、と目をこすりつつ音のするほうを探ってみると、
その音の正体はマナーモードにしておいた携帯電話の振動音であった。
『なぜここに自分の携帯電話が?』と思う梓だったが、父・満時が見舞いに来たとき、
見舞いの品(バナナ)とともに自分の携帯電話を持ってきてくれていたことを思い出す。

「(…って、そんなことよりも早く携帯電話に出ないと)」

そもそも院内で電話に出るのはあまりよろしくないことだが、
このまま無視するのも気分がよくないと思ったため、とりあえず携帯電話を手に取る梓。
個人病室だが、時間も時間なため、周りに声が響かないように声のトーンを下げて応対する。

「……もしもし?」

…相手は自分もよく知る人物だった。
寝ぼけていた表情が一瞬で真剣なものとなり、会話を続ける。

それから数分会話が続き、軽く挨拶をしてから通話ボタンを切った。
携帯電話の電源を切ってテーブルの上に置くと、再び横になって目をつぶる。
そして梓は思った。やはりこれは避けられない運命なんだな、と。



梓の心の内は変わりつつあった。

少しずつではあるが、それは着実に進んでいる。

想いと想いの狭間に揺れ動く心の行き着く先は、当の本人にも知るすべはないのである。

次回へ続く…。


作:黒星 左翼