南陽子が再びあたしたちの前に現れてから、さらに数日の時が流れた。
あの日以来、あたしは学校に行っていない。
あたしは、明かりを消した真っ暗な自分の部屋に閉じこもっていた。
『知られたくないのよ…!誰が獅子土さんを殺したかって事を… 』
その声が聞こえた途端、暗い闇の奥中に細かい粒子が集まって、南陽子と暗男の姿が現れた。
でももちろんカノジョたちは本物ではない。
あたしを苦しめ続ける、あの時の記憶から生み出された幻影だ。
南陽子は、あの時と全く同じ調子であたしに告げる。
『鷹森梓が獅子土董子を殺したって事が!! 』
「…やめてよ」
頭の中では、あの時の南陽子と暗男の会話がぐるぐる回っていた。
『ヒャッハッハッハハハハハハ!!めちゃくちゃおもしれぇ!!マジで陽子の言ったとおりになったぜぇ! 』
「いい加減にしてよ」
何度も。
『そもそも…私と暗男の信頼関係と違って…友情なんて…こんなものよ…馬鹿馬鹿しいわね… 』
「黙れ!!」
何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も…。
「あたしの頭の中から出ていってよ!!」
あたしは堪らずそこに置いてあった座布団を力いっぱい投げつけた。
…しかし、南陽子と暗男の姿が消えることはなかった。
南陽子の幻影をすり抜け、ばすん、と腑抜けた音を出して壁にぶつかった座布団が、一瞬遅れて畳に落ちる。
頭を押さえても、耳をふさいでも、その声からは逃げることができない。
ボタボタ、とあたしの両目からはとめどなく大粒の涙が流れ落ち、畳の上にシミを作り始める。
『ヒャッハッハッハハハハハハ!! 』『ヒャッハッハッハハハハハハ!! 』
『ヒャッハッハッハハハハハハ!! 』『ヒャッハッハッハハハハハハ!! 』
『ヒャッハッハッハハハハハハ!! 』『ヒャッハッハッハハハハハハ!! 』
『ヒャッハッハッハハハハハハ!! 』『ヒャッハッハッハハハハハハ!! 』
暗男の耳障りな笑い声が頭の中で何重にも反響する。
頭を押さえても、耳をふさいでも、その声からは逃げることができない。
『もうイヤ…』とあたしは震えながら何かに縋るように、ガリ…、と畳に爪を立てる。
『獅子土さんを殺したいから…殺したのよ鷹森さんは… 』
南陽子は害虫を見るような冷ややかな視線を向けて、地面に這いつくばるあたしに言う。
悔しさと、自分のミジメさが、怒りという感情にかわって心の中からフツフツと込み上げてくる。
あたしは、幻影を睨み付けながらゆっくりと顔を上げると、傍らに置いてあった鷹守宗孝を握りしめた。
「うるさい!!オマエさえ…、オマエさえいなければッ――――!!!」
目を見開いたあたしは錯乱気味に刀を振りぬき、南陽子と暗男の幻影を両断しようとした――
『おい…梓…お前…俺を殺そうとしたのか…!? 』
「健太郎!?」
すると、突然その幻影が健太郎の姿に変わった。
あたしは寸でのところでそれに気づき、怯えた表情を浮かべる健太郎の首元数ミリのところで刀を止める。
動揺して視点を泳がせるあたしは、刀から手を放して、首を振りながら震える唇を動かす。
「違う!あたしは――」
『ちがわねぇだろこの人殺しがぁ!! 』
「―― !!」
…その言葉は鋭い槍となってあたしの心に深く深く突き刺さった。
全身から力を失い、膝から崩れ落ちたあたしは掠れきった声でオエツし、さらに大粒の涙を流す。
こうして、あたしはさらに自己嫌悪の泥沼へとはまってゆく。
南陽子と暗男の罠にまんまとはめられたとはいえ、あの時カノジョの言っていたことは事実。
そんな"人殺し"のあたしが… みんなと顔を合わせるシカクなんて、ないのだから。
市に虎を放つ如し
第二十四話 四分五裂
「お、お嬢… 朝ごはん持ってきやしたぜ…?」
太陽が一定の高さまで昇り、気温もゆっくりと上がり始めたころの鷹森家。
おなじみ(?)金髪の痩身にピアスの鷹森組幹部の一人・篠崎がひきつった笑みを浮かべ、
両手には朝ごはんの乗ったお膳を持ち、ゆっくりとふすまを開いて恐る恐る梓の部屋へと入室する。
篠崎は軽く室内を見回した。
足の短い机と座布団が置かれ、今や珍しいぼんぼりが部屋の中を照らしており、
教科書やノートの散乱する勉強机には、大小様々のかわいらしいぬいぐるみが飾ってある。
その他、ハムスター(名前:公太郎)がカラカラと滑車を回していたり、DVDプレイヤーや地デジ対応42型テレビが置かれていたりなどなど、
一部純和風の邸宅には似つかわしくない家具が置かれている、そんな部屋の隅っこ。
この部屋の主―― 鷹森梓はそこにいた。
少し乱れた寝間着姿の梓はそこに縮こまり、光の宿らない淀んだ瞳はぼーっと何かを見つめていた。
極めつけに、もうもうと放たれ続ける負のオーラは、明かりが届かない部屋の隅っこをさらに暗くしているようだった。
篠崎の姿を見つけた梓は視線だけを向けると、普段の彼女を知る人物にとっては想像もつかないほどの低いトーンで、
ぼそりとつぶやいた。
「……いらない」
注意していなければ聞き逃してしまいそうな、かすれきった声だった。
その声に『うっ…』と一瞬面食らうが、すぐにひきつった笑みを取り戻す篠崎。
ものすごく居づらい空気の中、冷や汗をたらたらと流す彼の目に、あるものが映った。
それは昨日の晩ごはんとして置いていったお膳だった。ごはんやみそ汁は冷め切ってカチカチとなっており、
箸も使われた形跡がないことから、全く手をつけていないということが分かった。
「あ、お嬢ったら… 昨日もご飯食べてないじゃないですかー。だめですぜー、年頃の女の子がご飯抜いちゃあ美容にわr」
「いらない」
先ほどよりはわずかに語勢が強くなった。さらに気分を損ねてしまったのだろうか。
篠崎はガバッ!と振り向くと、『もうムリ!!限界!!』と、廊下からこっそり覗いている三人の幹部へと合図を送る。
その中の一人・サングラスの大男、須田は素早く手旗信号で『イイカラハヤクモドッテコイ』と合図を送った。篠崎はそれに頷くと、
『俺はそろそろ行きますんで…』と梓に軽く頭を下げて、晩ごはんのお膳を回収するとそそくさと梓の部屋から退散した。
何とか廊下へ出た篠崎は、幹部三人と合流して梓の部屋から離れると、念のためひそひそ話で事後報告をする。
「お嬢の様子。どうだったか。」
「いやあれはすごい重症ですぜ…。あんな落ち込んだお嬢の姿を見たのは俺も初めてかもしれませんよ」
「魔物だったとはいえ、親友を手にかけた上に、さらにそのグループでの仲違いが起こっては…」
「さすがのお嬢でも心が折れちまうんすね…。むしろ今までよく耐えてこれたなと思うすよ」
上から、藤浦、篠崎、須田、柿村の順に発言している。
あの日を境に梓は学校やバイトを休むようになり、一日中部屋にこもる日々が続いていた。
もちろん、退魔の任務も今は戦闘不能の梓の代わりに鷹森組の組員を大勢動員してなんとか行っている。
さっきの態度からもわかるように、この数日はまともにごはんも食べていないようだ。
「我々が、何とか力になることはできぬものだろうか?」
一概に言えるのは、これ以上落ち込んでいる梓の姿は見たくない、ということだ。
しかしそのための手だてがまったく見つからない。
ぽっかりと空いてしまったお嬢の心の穴をどうやって埋めるべきか…。
うーん、と四人は腕を組んで唸る。
「…そういえば篠崎の兄さん。一発芸 とか得意すよね?」
「えっ」
何気ない柿村の言葉に、篠崎の目が点になった。
「そうだ、思い出したぞ! お前の一発芸は去年の忘年会でも大ウケしていたな。
あれは傑作だった。ほら、お嬢も笑っていたではないか。うんうん」
その時の情景を思い出した須田は、手をポンと叩いて一人納得する。
ほどなくして、幹部三人の視線が篠崎に向けられた。
「「篠崎、任せた!」」
「Σ いやいやいやいや俺のギャグなんかでお嬢の心の隙間は埋められないっすよ!!」
「男たるもの、やらなければならない時があるんすよ篠崎の兄さん」
「信じている。お前の実力を。」
彼は先ほどよりも大量の冷や汗を流しながら、首を何度も横に振ったが、
柿村と藤浦が篠崎の肩に手を乗せ、やたらとシリアスな表情で篠崎を送り出そうとする。
むしろお嬢の心の溝が深まってしまうんじゃないですかい!?と篠崎は反論するが三人はどうも話を聞いてくれない。
そればかりか背中をぐいぐい押してくる。
「何を悩むことがある。お前には適任のはず。」
「これで失敗したら俺もう立ち直れないっすよ!? 今のお嬢くらい落ち込みますよ!!」
「大丈夫だ、問題ない。お前亡きあとは我々三人でお嬢と組長をサポートするまでだ。だからさっさと行って来い篠崎」
「俺もう捨て駒っすか!?くそうこうなったらこっちにも考えがありますよ!(ぐいっ」
その時、篠崎が幹部三人の背中にスッと手を回してスーツの襟首を掴み、
痩身の彼からは出たものとは思えない凄まじい筋力(多分身体強化の術式のせい)でずるずると三人の男を引きずる。
「く。苦しい。首が。」
「ぐぉぉ篠崎の兄さんんんんッッまさか俺たちも道連れにするつもりすかッ!?」
「死なばもろともッ!幹部全員でいけば怖くないでしょう!!」
「篠崎貴様ァァッ!!恨むぞッ!!あの世で末代まで恨んでやるぞ!!」
「…えーと、み、皆さん…? お取り込み中のところ大変申し訳ありませんが…」
ギャーギャー騒いでいた四人はピタッと動きを止める。
渡り廊下からすぐそこに見える庭には、『み、見てはいけないような場面に遭遇してしまった気がする…』と言いたげに、
気まずそうな表情で目をそらしている若い鷹森組組員の姿があった。
幹部四人は一瞬お互いを見つめあうと、何事も無かったかのようにすぐさま立ち上がって、ピシッと服装を正す。
さっきのことは見なかったことにしたのか、若い組員は表情を試験なものへと変えて話を続けた。
「満時組長から緊急招集の伝令が下っております。篠崎殿、須田殿、藤浦殿、柿村殿の幹部四名及び、
傘下の組の重鎮は取り急ぎ『会所』に集まるように、とのことです」
『緊急招集…?』と、首をかしげる四人だが、ともかく組長のところへ行かないことには始まらない。
「わかった、ご苦労さん。俺たちも今すぐ向かう。皆、急いで向かいますよ」
篠崎がそう言うと、『おう』と返事をし、幹部三人も彼の後について会所のほうへと歩き始める。
去り際に、篠崎はちらりと梓の部屋へと視線を向けた。
お嬢のことはもちろん気になるが、今は伝令の内容を確かめるのが先決。
数分後、会所の前へとたどり着いた篠崎達幹部は、唾を飲み込むと、古びて滑りの悪い木製の戸を引いた。
会話の内容を漏らさないためか、障子が締め切られ、最低限の明りだけが灯された薄暗い畳張りの部屋の中では、
鷹森組傘下のヤクザの重鎮たちが顔をそろえていた。耳を澄ませるとひそひそと話し声も聞こえる。
そして、入口から向かって一番奥の空間。
そこには鷹森家現当主兼、鷹森組組長・鷹森満時が険しい表情を浮かべ、座している。
ぴりぴりと張りつめた厳かな空気の中、幹部四人は通り道として空けられた真ん中のスペースを通り、
組長のすぐそばに用意された四つの座布団の上に正座をする。
四人が着座した頃合いを見て、一呼吸置いたのち、満時は重い口を開いた。
「これより、"橋本組の案件"についての会合を執り行う」
…。
時は、鷹森組で行われた『会合』から多少前後する。
時刻は深夜。街に存在するたいていの店舗が営業時間を終え、明りも疎らな繁華街を、一台の高級車が静かに走る。
その車両の後部座席には、魔物を擁するヤクザである橋本組の組長・橋本渉の姿があった。
橋本はとある用事を済ませるために外出し、今は帰宅している最中である。
彼の顔を覗くと、表情は憂いに沈んでいた。そしてひとつ大きなため息をつく。
その背景には、去る獅子土董子と鷹森梓の果し合いの結果が尾を引いている。
「さっきからため息ばっかですぜ、兄貴。…やっぱり董子さんのこと、まだ気にしているんじゃあないですかい?」
そんな組長の姿を心配したのか、運転手がミラー越しに橋本の顔色をうかがう。
「……」
だが、橋本は無言だった。
表情は沈んだままで少しうなだれている組長を見た運転手の男は、『あぁ、これは図星だろうな…』と直感する。
運転手の男は、視線をルームミラーから外すと、彼もまた沈んだ調子で言葉を続けた。
「……あの時、あっしらがもし董子さんの決闘を止められていれば、兄貴がこんなに悲しむことは……」
「いや、それは無理だよ」
運転手の男の言葉を遮り、橋本は息を吐いた。
「あの果し合いは、董子が自分の意志で決めたことなんだ…。俺が止めることなんてできない」
「それでも…、やっぱり、悲しすぎますぜ……。あの戦いは……」
「あぁ…」
橋本は、ごくごく短期間に二人もの大切なひとを失った。
その際の心労がたたってか、最近まで体調を崩していた彼。
鷹森組との抗争終結の代償は、あまりにも大きい。
「だがな、董子は魔物で、鷹森家は退魔の一族。
どんな形であれ、いずれかは決着をつけなければならなかったんだ…!」
彼は自分自身に言い聞かせるように、拳に力を込めて強い口調で言う。
「……でも、董子と鷹森梓は、お互いが憎しみあって戦ったわけじゃない……。
たとえ魔物と退魔師という関係であっても、最後は、『親友同士』として決着をつけることができた。
董子にとっても…それが幸せだったんだろう。少なくとも、俺はそう思っているよ」
「兄貴……」
橋本はゆっくりと目を閉じた。
彼の脳裏には、董子とともに過ごした数々の思い出が蘇る。
董子を引き取った日のこと、初めて俺に笑顔を向けてくれた日のこと、
些細なことで怒らせてしまった日のこと、そして、メリッサを亡くした俺のために、
一緒に悲しんでくれた日のこと ――
最愛の妻であるメリッサと過ごした時間よりは短かったものの、
董子は俺にたくさんのものを与えてくれた。それは董子も同じだったのだろう。
何かが吹っ切れたように橋本は目を開けると、寂しげに視線を窓の外へと向けた。
「これで、よかったんだ。これで…」
バゴォンッ!!
「!?」
突然、車に大きな衝撃が襲いかかった。
ギャギャギャギャ!!とアスファルトに煤を残しながら右に横滑りし、車は反対車線に飛び出す。
「おい!!今何が起こった!?」
「とっ、突然右前のタイヤがパンクしました!!恐らく狙撃です!!」
運転手はスピンしかけた車の体勢を立て直そうと、ハンドルを必死に切ろうとするがどうにも制御が利かない。
制御を失い、ジグザグに暴走する車の向かう先には、違法駐車された車が…!
運転手と橋本は緊迫した表情で覚悟を決める。
「グッ、クソッ!! 兄貴――ッ!!」
その直後。何かを叫ぼうとした運転手の言葉を遮り、轟音と共に脳が揺さぶられる衝撃が走り、橋本の意識は途切れる。
橋本の乗る車両は、勢いを残して違法駐車の車両に衝突した。
「………う…」
橋本は、うつぶせの状態で目を覚ました。
なぜうつぶせに…?と一瞬思った橋本だが、朦朧とした意識が定まった今は、
シートベルトをしていたはずの自らの身体が、車の外に投げ出されていたことを理解する。
口の中は鉄の味がし、体中にひどい痛みが走る。頭からは血が流れていた。
「そうだ、あいつは……?」
首を左右に振って運転手の姿を探すが、どこにも見当たらない。
もしや、まだ車の中に残っているのだろうか。そうならば一刻も早く助け出さなくては…!
まずは身体を起こそうと腕に力を入れるが、
「…ぐあっ!? う、腕がっ…!」
腕の痛みに耐えきれず、一度は立つことを断念する。道路に投げ出された際、特に腕を痛めたようだ。
だが、橋本は奥歯をかみしめ、常人では耐えきれない痛みを堪えながら、よろよろと立ち上がる。
これこそ極道の長の根性のなせる技である。
痛む右腕を左手で押さえ、ゆっくりと後ろを振り向くと、
「…………!!」
彼は言葉を失った。
なぜなら、橋本渉の瞳には、横転し、炎に包まれる二台の車の無残な姿が飛び込んできたからだ。
ゴォォォォォ…と、とどまることを知らず勢いよく燃え盛る炎は、暗くなった繁華街の一角を明るく照らす。
…もはや、運転手の生存は絶望的だった。
つんと鼻に来るガソリンのにおいを受けながら、橋本は『くそっ…!』と悔しさを声に漏らした。
「ほぉー、これだけの大事故でまだ生きてんのか。ジャパニーズマフィアってのも意外とスゲェもんだなァ」
背後から男の声がした。
橋本は振り向いて身構えると、炎が生み出す明りに照らされながら、ゆっくりと男が近づいてくるのが見えた。
しかし完全には見えておらず、性別が男であるということと、背丈は日本人に比べると高いということしか確認することができない。
「おい、これはテメェの仕業かコラァ!!」
橋本は腹の奥底から吐き出すように叫んだ。言葉を出すたびに、体中の傷が痛む。
だが、男は橋本の神経を逆なでするようにおどけた調子で肩を竦めた。
「ま、そういうことになるわな」
「テメェ……ッ!!」
橋本の両目には殺意の炎がともり、身体は怒りに震え出す。
「―― 俺はジョン・アルバート」
やがて男の姿が徐々に明らかになる。
「フリーのスナイパーだが、今は四ツ和財団の特殊工作員として雇われている」
両目に傷と縫合の跡があり、サングラスをかけた容姿の銀髪の外国人。
上は藍色のコートに黒のズボンを着用しているが、コートの下は裸である。
「まー、わかりやすく言えば、この間の抗争でお前さんの妻を狙撃した張本人 ってワケさ」
その言葉を聞いた瞬間、目を剥いた橋本は、怒りにまかせて懐に忍ばせていた拳銃を発砲した。
一発、二発、三発…、間髪いれずに連続で発砲するが、ジョンという男は体を平然と身体を左右に振って弾丸を避ける。
間もなくすべての弾丸を撃ち終え、彼の持つ拳銃は空しく引き金の音を立てるのみだった。
この男がメリッサの本当の仇だ。 …なのに、この男を殺すことができなかった。橋本は肩で息をしながら舌打ちする。
「人の話は最後まで聞け橋本渉。俺は目をやっちまった代わりに五感が優れていてな。人は俺を『盲目のサウザンズアイ』と呼ぶ」
「盲目の…サウザンズ…、アイ…?」
橋本も、通り名だけは聞いたことがあった。
かつて某国の革命組織に属していた、目の見えないスナイパーの噂。
だがそのスナイパーは、そんなハンディをもろともせず狙った得物を必ず仕留める。
失われた視力の代わりに、驚異的に優れた五感を持っていた彼は、
いつしか『千の目を持つ男』として組織の内外から恐れられ、やがて伝説となったという。
その『盲目のサウザンズアイ』が、今は四ツ和財団側についているというのだ。
「ま、それはそれとして。単刀直入に言うが俺はお前さんを始末しに来た」
「(くっ…!)」
それだけ言うと、ジョンは橋本に向けて片手で銃を構える。
しかしそれをいち早く察知していた橋本は、極力音を鳴らさないように近くの遮蔽物の陰に隠れた。
息を殺し、細心の注意を払って物陰からジョンの様子を物陰から確認するが、
彼は拳銃の照準を外すこともなく、先ほどまで橋本がいた場所を狙い続けていた。
どうやら気づかれてはいないようだ。あとは異変に気付いた組の者が到着するまで何とかこの男をやり過ごし、
それからメリッサを死に至らせたこの男へ復讐することを考えていた橋本だが、
「おっと、物陰に隠れようとしても無駄だぜ? 言い忘れていたが俺にはもう一つ特殊な能力があってな」
パシュッ、とジョンの持つサプレッサー付きの拳銃の弾丸が放たれる。
撃ちだされた弾丸は一直線に進み、本来なら誰もいないアスファルトに命中するだけだった。
だが、
「ッ!?」
弾丸は突如軌道を変え、遮蔽物に隠れていた橋本の左胸を貫いたのだ。
「……な………にィ…っ!?」
その時何が起こったのか、橋本には理解できなかった。
撃たれたと気付いた時にはもうすでに遅かった。左胸からは鮮血が吹き出し、彼の体はぐらりと大きく揺れる。
「こいつは『魔弾』。俺が撃った弾丸の軌道を自由自在に変えることができるのさ。
鷹森組に捕まった獅子土董子を助けた時も、お前さんの妻を撃った時も、さっき車を狙撃した時にもこの能力を使っていたんだぜ?」
ジョンがわざとらしく明るい調子で言い終えた後、ドサリ、と鈍い音を上げて橋本はうつぶせに倒れる。
とっさに手で押さえても、左胸からは未だ尋常じゃない量の血液が体外に放出され、アスファルトの上に血だまりを広げてゆく。
さらに息も苦しい。撃たれたときに肺をやられたようだ。
「なぁ橋本渉。この銃、わかるか?」
ジョンはすでに虫の息となった橋本のもとへ歩み寄ってしゃがみこむと、自らの持っていた銃を橋本の目の前に差し出す。
「MK23…? それは… た…鷹森組 が、使用 し てい る銃…?」
「ご明察。この拳銃は、あの抗争の時に財団の特殊工作員が死んだ鷹森組の連中から盗んだものさ。
付け加えれば、これは対魔物用に術式で殺傷力が高められている拳銃だ。人間がまともに食らったらまず助からないだろうなぁ」
もっとも、人間に向けて直接撃たれたことはないらしいけどな、とジョンは笑う。
それはそのはずだ。鷹森組の信条はあくまで魔物を倒すことであり、人間を殺すことではない。
「ところで、この繁華街の近くの住宅地では鷹森組の一派が魔物討伐の真っ最中だ。
そこからそう離れていない場所で、魔物を組員として使役する橋本組の組長が、鷹森組が使う銃で撃たれて死んでいる。
…さて、ここでクエスチョンだ。この状況を何も知らないお前さんの仲間たちが見ると、どういう風に捉えるでしょーか?」
四ツ和財団の特殊工作員ジョン・アルバートの襲撃を知らない彼らは真っ先に鷹森組を疑うだろう。
いくら鷹森組が人を殺さないとはいえ、この前に抗争を終えたばかりの両陣営の間ではまだ危うい均衡状態が続いている。
中には抗争の結果に納得が行かないと思っている者も少なからずおり、その者たちが組の意向を無視して暴走、
隙あらば何らかの方法で相手方の組長を殺害する…ということもあり得たからだ。
そんな時期に橋本渉が暗殺されるなどという事件が起こっては、鷹森組と橋本組…、
延いてはそのバックに存在する組長会の間で大抗争が始まってしまう…!
「組 長会と … 鷹森 組の抗 争……、まさか、それ がお前 たち の、狙い か…!?」
「その通りだよ橋本渉」
橋本の必死な問いに、ジョンは立ち上がってにやりと笑った。
「まず、お前さんを鷹森組の仕業に見せかけて殺害するだろ?
そうすりゃあ当然橋本組やお前さんの仲間たちが仇を討とうと行動を始める。
すると敵討ちにドンパチやり始めた危険な橋本組と仲良くしている焼石カンパニーの信頼はガタ落ち。
こうして邪魔な組織を一掃できて、四ツ和財団はトップに立つことができるってワケよ。それが四和会長の狙いさぁ」
身振り手振りを交え、ジョンは愉快そうな面持ちで財団の"表向きの"思惑を語る。
早くこのことをみんなに知らせなければ…!と、頭の中では必死に考える橋本であるが、
過度の失血のせいで体中に酸素の供給が失われつつあり、何かしらの行動を起こすこともままならない。
言うだけ言うと、『そろそろ時間だな』とジョンは橋本に背を向ける。
「ま、待……」
『待て』と声を出そうとするが、もはや空気がかすれたような声… 否、音しか出すことができない。
意識も朦朧とし、橋本の視界は徐々に黒いもやのようなものに遮られつつある。
最後の力を振り絞り、今まさに去ろうとするジョンの足に手を伸ばすが、
感覚を失いかけた体が言うことを聞くはずもなく、その手はジョンに届くことはなかった。
「スマンがこれも仕事なんでね。悪く思うなよ」
そんな橋本の最後のあがきも知らず、背を向けたままヒラヒラと右手を振るジョンの声が遠く聞こえる。
そして間もなく、黒いもやのようなものは彼の視界のすべてを包み込む。
それが橋本渉の目にした最後の光景であった。
もはや、何も見えない。もはや、何も感じない。そこにあるものは、常闇の世界。
これが人間の辿る末路である。
「(―― みんな… すまない…)」
わずかに唇を動かした後、橋本渉は静かに眠りにつくように息絶えた。
財団の思惑に屈し、最愛の妻と娘同然の大切な存在を失ったという、無念の想いだけを残して。
―― 橋本組組長・橋本渉暗殺の報せが各組織に広まったのは、その数時間後のことであった。
…。
やがて、橋本渉の死の報せは、各組織の思惑をさらにすれ違わせてゆく。
「チクショォォッ!!!」
男の怒号とともに、暗い部屋の中にズバァンッ!!と雷のような音と閃光が瞬く。
青白い光… 電気を纏った男の周りには、顔の部分だけを打ち抜かれた写真がひらひらと宙に舞っていた。
その男の名は、組長会の一員である北条院組組長・北条院明彦。
金髪で、両耳や目の下、唇にもピアスを付けている…といった、一目でやくざ者の人物とわかる出で立ちをしている。
北条院は落ちてきた写真の一枚を靴で踏みにじり、さも忌々しげに言った。
「鷹森のクソ野郎共が… 何が『人間は殺さない』だ!!よくも渉を…ッ!!」
憎まれ口を叩きあっても、北条院と橋本は親友同士だった。
そのため、『鷹森組の銃によって橋本渉が暗殺された』という知らせを受けた際、彼は組長会の誰よりも悲しみ、激怒した。
気持ちが収まらないのか、彼は叫び声を上げながらズバァンッ!!ズバァンッ!!と部屋の中にある備品を手当たり次第にプラズマ砲で撃ち抜く。
そして最後に、壁にかけてあるコルクボードに押しピンで留めてあった鷹森梓の写真が目に映った。
「今に見ていやがれよぉ鷹森組ぃ…、絶ッッ対に復讐してやるからなぁッ!!」
怨嗟の声を吐き出した北条院は、憎き鷹森組組長の娘・鷹森梓の写真を最大出力で撃ち抜く。
コルクボードころか壁が吹き飛び、隣の部屋が見えるほどの大きな穴が開いた。
組長会きっての荒くれ者、北条院明彦。
彼の恐るべき復讐計画が、今ここで始まろうとしている。
…。
「そうかそうか。『盲目のサウザンズアイ』は橋本渉暗殺に成功したのだな」
「はい」
場所は変わって、夜の四ツ和財団本社の会長室。同財団会長・四和誠一郎は会長席を立ち、
巨大なガラス窓から夜景を見つめながら社員からの報告を聞いていた。
「後は組長会と鷹森組が私の描いたシナリオ通りに動いてくれるはずだ。焼石カンパニーと橋本組の関係の公表も忘れるな。
だが公表のタイミングには十分気を付けるようにしてくれたまえ。マスコミ共がもっとも騒ぎ立てる時期を待つのだ」
「…了解しました」
「それともう一つ」
四和会長は夜景を見つめたまま、右手の人差し指を立てる。
「監視員有沢咲耶を"機密情報漏えい罪"で確保しろ。私設特殊部隊『Y.S.S.』の者たちに命じてな。なるべく生かして捕らえるように」
「は、はぁ…。しかしどうしてです? 恐れながら、あの者一人に『Y.S.S.』を投入するのはさすがにやりすぎでは…」
『Y.S.S.』とは『ヨツワセキュリティシステムズ』という四ツ和系列の警備会社の略称であるが、その実態は四和会長の私設特殊部隊。
罪を犯し収監されていた自衛官、あるいは軍人や傭兵など、国内外からその人員をかき集めたいわくつきの集団である。
「彼女は我が社の最新型スマートフォンを無断で持ち出したのだよ? あれはわが財団の宝だ。
だから早急に捕らえねばなるまい! ほかの組織の手に渡る前に、な…」
四和会長は社員に背を向けたまま、語勢を強めて言った。その剣幕に社員はビクゥ!と肩を震わせる。
もっともらしい理由を並べているが、果たしてこれは本当にスマートフォンのことなのだろうか?
にしてもスマートフォンごときで何もそこまでするとは…と、社員は合点がいかない様子だったが、
口答えをすると何をされるかわからないので、仕方なく疑問を心の中に押しとどめることにした。
「わ、わかりました。それでは、手筈通りに…」
「うむ。頼んだよ?」
社員は一礼すると、そそくさと会長室を後にする。
「……図らずとも、『影の勢力』のお蔭で有沢咲耶の周りの者たちは彼女のもとを離れていった。
組長会と鷹森組が争いを始めた今、完全に独りとなったあれを確保するのは容易いことだろう」
そう独り言を漏らすと、四和会長はにやりと笑った。
もちろん、有沢咲耶確保の理由『機密情報漏えい罪』は表面上のものに過ぎない。
最新型のスマートフォンのことは本当はどうでもいい。この男の今の目的は、能力に目覚めた有沢咲耶を捕らえること。
どんな非道なことを行ってでも、必ず自らの悲願を叶えてみせる。四和会長とは、そういう男である。
「有沢咲…能 ……を手に………さえすれば、最強 の………が完成する…
"表の社会"で も、"裏の社会"…も…トッ……立……は…この私だ…!」
ガガッ… ザザー……
「―― ちっ、もう聞こえないか。このポンコツめ」
ここは会長室上部のダクト内。財団が怪しい動きを見せていることが気になった監視員タカダは、
人知れずその場所に潜入し、特定のターゲットの監視の際に使用する指向性マイクで、四和会長の会話を盗み聞きしていた。
「だけど、こりゃぁヤバいことを聞いちゃったなー…」
ノイズしか聞こえなくなったイヤホンを耳から外すと、彼はため息交じりに苦笑いをする。
ついに彼は知ってしまった。
世界的トップ企業、四ツ和財団のどす黒い暗部の片鱗を。
…。
「うぉぉおぉぉおおおぉぉぉぉーーーっ!!!」
場所は深夜の高速道路。松沢健太郎は、草木も眠る山々に轟音を響かせながらバイクを走らせる。
彼もまた、獅子土董子死亡のショックから立ち直れず、彼女を直接殺害した鷹森梓、
自分をずっと騙し続けていた有沢咲耶の両名に対するやり場のない怒りを、バイクを走らせることによって発散させていた。
そんな彼の姿を、すでに明かりの落ちたサービスエリアから見つめる人影が存在した。
「……松沢君の………あの様子だと…あの二人と…くっつくことは…もうなさそうね…… やっぱり…友情なんて…くだらないわ…」
「ゲヒャヒャヒャヒャヒャァ!!アイツらのこれからが楽しみすぎるぜェ!全く陽子はいつも面白ェことを考えるなァオイ!」
闇の中にぽつりと佇む、赤い洋服を着用した南陽子。
彼女の言葉に、影である暗男が心の底から愉快そうな声を上げて大笑いする。
松沢の様子を見るに、南陽子の計らいは確実に実を結んでいるようであった。
「ところでよォ陽子、フィンスターの野郎はどこへ行きやがった?」
「……フィンスターさん…なら……有沢さんの…ところへ向かったわ……。
彼女の…能力が……ほかの…組織に……渡るのは…危険だから……ですって…」
「ケッ! なんだ。久々に大暴れしたかったのによォ!」
「落ち着いて…暗男……。いざという時が…来るまで……私たちも…できる限りの範囲で……協力…しましょう……」
さっきの様子から一転、不機嫌になってしまった暗男を南陽子が優しくなだめる。
まァ陽子が言うなら仕方ねェか。と意外にも素直に意見を受け入れる暗男。
「それじゃあ…私たちも……そろそろ…行きましょう……」
「そうだなァ!ここにいてももうつまんねェしなァ」
「この戦いの勝者は……私たち…『ナイト・オブ・ダークネス』よ… それだけは……揺るがないわ…」
その言葉を言い残し、南陽子と暗男は闇の中に包まれるように消えていく。
こうして、誰もいなくなった深夜の高速道路には、松沢の乗るバイクの音だけがいつまでも響いていた。
友情を引き裂かれた鷹森梓、有沢咲耶、松沢健太郎。
そんな彼らの弱みにつけ込むかのように、各組織は新たな動向を見せる。
はたして、彼らは損なわれた友情を再び取り戻すことができるのか。
そして、各組織の魔の手から逃れられるのか。
いずれにせよ、彼らが厳しい運命に翻弄されてゆくというのは明々白々の事実である…。
次回へ続く…。
作:黒星 左翼
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