市に虎を放つ如し






心地よい小川のせせらぎ、見渡す限りの花畑。大衆が想像するような"あの世"の光景。


「――久しぶりだね」


そんな情景の中、ふいに聞こえた聞き覚えのある声。梓に向けて微笑みかけるのは、あの戦いの末に自ら命を絶った"大親友"――


「元気だった?あずさ!」


――獅子土董子の姿だった。





市に虎を放つ如し

第二十六話 死地に陥れて後生く



どゔごぢゃあぁあぁあぁぁん!!!うヴォォぁあぁああぁああ!!!
「まぁいいからとりあえず鼻水と涙を拭こうなあずさー今顔がすごいことになってるから」

顔をぐちゃぐちゃにして(比喩でなく書いてその通りの意味で)泣き声とも叫び声ともつかない声を上げる梓を軽くかわし、
あの頃と変わらぬ姿の董子は平然とした表情でどこからともなく取り出したティッシュとハンカチを手渡す。…感動の再会とは微妙に遠いシーンである。

「それで、やっぱりあたし、死んじゃったの…?」

鼻をかみすぎて赤くなった鼻をぐしぐしと鳴らしながら梓は問う。
多少は気分は落ち着いたようだが、それでも涙を流したことでまぶたが赤く腫れている。

「いんや」

だが董子はあっさりと首を振る。

「ま、あんたが『死んだ』って言っていたのは、半分あたりで半分はずれみたいなもんかなぁ?
 ともかくあんたはまだ『三途の川』を渡ってないよ。ここは、"この世"と"あの世"の間の世界だからね」

言いながら董子が指さした方向には、小石が大量に転がっている河原の向こうに、きれいな小川が流れていた。
どうやらこれが"あの世"と"この世"との境界を流れる川、『三途の川』のようだ。
よく見ると渡し船も存在し、川面には大きさいろいろの蓮の花が揺られている。
先ほど聞こえてきた快いせせらぎの音はこの川で間違いない、と梓は納得した。
だが、小川の対岸のほうは何やら深い霧が立ち込めていてよく見えない。しかしその領域こそ"あの世"であることは明白だろう。
二人はこの『三途の川』のほとりの綺麗な花畑に立っていた。

「あたしも、"あっち"に行ったら楽になれるのかな… そしたら董子ちゃんとずっと一緒に…」

未だ虚ろな瞳の梓は、操り糸に吊られたようにふらふらと歩みを始めた。
河原に転がる小石が足に食い込んで痛むが、そんな些細な痛みなどどうでもよかった。
解放されたい。厳しい使命から、つらい現実から。その一心で彼女は"あの世"へ向けて川を渡ろうとする。

「それはダメだ。あんたはまだ"あっち"へ行ってはいけない」

だがそんな梓を許すはずもなく、董子は険しい表情で彼女を制した。

離して!! もうヤだよ…あたしはもうラクになりたいの!!
 あっちへ行けばもう傷つかなくてよくなる!!しがらみなんて抱えなくてよくなる!!
 もう大切な誰かを殺すことだってっ…… ……あたしのせいで…悲しむ人もいなくなって………!!
 あたしさえ死んじゃえば……誰も…あたしも……こんな辛い…思いなんてっ……二度と…二度と………っ!!


董子の手を振りほどこうと必死にもがいていた梓だったが、力が弱弱しくなっていき、やがてその場へたりと崩れ落ちた。
顔をくしゃくしゃにした彼女の両目から零れ落ちる大粒の涙。それらは澄み切った川面に幾つもの小さな波紋を作る。

姉の怪我に伴い、突如退魔の任を帯びることとなった彼女は、これまで幾多もの重圧を抱え込んでいた。
心身ともにまだまだ未熟な彼女にとっては、それらはあまりにも耐え難いもの。
それらのプレッシャーを持ち前の明るさで無理やり抑え込んでいたものの、それはすでに限界を超えており、
長い間に蓄積されてきた負の感情の塊は、この前の出来事を引き金に自分自身を責めつづける幻影となって現れたのだ。

獣の咆哮のような慟哭を上げる彼女は、心の中でせき止め、堪えていた思いを一気に爆発させているようだった。


嗚咽を上げる梓の姿を静観していた董子は、吐き出される弱音の一つ一つを受け止め、
心底沈み込んでいる親友の姿をしっかりと見据えて大きく息を吸い込むと、


あずさ!!!


雷が落ちたように、ぴしゃりと怒鳴りつけた。

…っ……とう、こ…、ちゃ……

董子の突然の大声に驚いた梓は一度肩をビクッと震わせ、思わずしゃっくりを上げながらゆっくりと彼女の姿を見上げる。
その表情は、普段の梓ならまず見せることはないだろう、肉食獣におびえる小動物のような弱々しいものだった。
それを見るや否や、董子は再び強い言葉を浴びせた。

自分が死ねば楽になる!?しがらみから解放される!?
そんな甘ったれたこと言ってんじゃないよ!!


怒りに任せ、思わず梓のパジャマの胸ぐらをガシィッ!!と両手で掴みあげる董子。
お互いの顔が間近になるが、怒りの表情を浮かべる董子に反し、弱り切った梓はまだ虚ろな表情で涙を流していた。

あのころの強いあんたはどうした!?
あの南陽子から初めて私を守ってくれた時のあんたは、
倒れても諦めずに何度も何度もあいつに立ち向かっていった!!
最後に私と決闘した時だって…… 迷いを断ち切って全力で私に向かってきた!!
人を守るため戦うっていうあんたの決意はそんなに脆いものだったのか!?


早口で叫び終わると、董子は手の力を緩める。そのはずみで、バランスを崩した梓は川から河原のほうへとよろよろと座り込む。
息を継ぐ間もなく声を一気に出し続けていた董子は、息切れしたのか険しい表情を浮かべてぜえぜえと息を整えていた。
やがて梓のほうへゆっくりと近づいてしゃがみこむと、今度は怒りの表情ではなく、慈しみを含んだ表情を梓に向ける。

「今はつらいことばかりだろうけど…… 今ここで逃げてしまっちゃあ何も解決しないんだ。
 もしこんなところであんたが死んじまったら、だれが悪い魔物から人々を守るのさ?」
…でも…あた……しは……… …もう……みんな…ばらばらに…なって…… どうしたら……

嗚咽が混ざり、絞り出すような梓の言葉がとぎれとぎれになる。
心の支えだった大親友・董子を失った上に、南陽子の再出現で親友たちとの友情を壊されてしまった彼女の心の傷は、相当深い。
端的にその事実を悟った董子は、

「大丈夫さ。あの日、私たちがあの桜の下で結んだ絆は何よりも固い。
 こんなことで私たちの友情は完全に壊れたりしないよ。すぐにみんな仲直りできる!」
……ホ、ホントに…?
「だから心を強く持て!鷹森梓!あんたは退魔の一族でヤクザの組長の娘なんだろ?
 前に向かって進む勇気と力があんたにはあるはずだ!」

そして一息おくと、董子は梓の瞳をしっかりと見据えて最後の言葉をつむぐ。

私は、あずさのことを信じてるからね


…董子ちゃん……

この言葉が決め手となった。
ただただ弱々しく涙を流していただけの梓の表情が、安らぎに満ちたものへと変わる。
その瞬間、梓の中から"黒いもや"のようなものが抜け出ていき、やがて消えていった。
これこそがおそらく彼女を苦しめて続けていた負の感情の塊だろう。
涙を拭い、瞳を閉じた梓は気付けに両手で頬をぱんぱんとたたくと、そのままゆっくりと立ち上がった。

…………うん、そうだね…、 ……そうだよ!
 あたしはこんなところで立ち止まっている場合じゃない…!!


先ほどまでとは違い、自信と力強さが込もった言葉とともに梓の瞳が再び開かれた。
その瞳は、何もかもに絶望した光のない淀んだ瞳ではなく、光を宿した希望に満ち溢れる瞳であった。
砕かれた希望を再び取り戻した梓は、董子に向けて久々の笑みをこぼした。

「ありがとう董子ちゃん。おかげで目が覚めたよ」

うじうじしたままだと、あたしを信じてくれたみんなに申し訳が立たなくなるしね、と梓は付け加える。
それを見た董子はさもうんうんと満足げな調子で笑った。

「よーし、これであんたはもう大丈夫だ!私の役目は終わりだね」
「……え?」

その言葉の真意がわからず、キョトンと首を傾げる梓。

「戻るんだよ、あんたの世界に」

董子の言葉が終わったと同時に、突然重力を失った梓の体はふわふわと浮き上がり始めた。
生への希望を見出した梓の意識は元の世界へと戻ることとなる。それはすなわち、大親友との別れの時が来たことを示していた。
二人の距離はみるみる離れてゆく。大親友との別れを惜しむ梓は、最後の抵抗といわんばかりに、手を必死に伸ばして董子の手を握る。

そんなぁ!せっかく出会えたのに……、話したいこともいっぱいあったのに……、また離れ離れになっちゃうの…?」

董子も梓の手を快く握り返すが、また悲しそうにしている梓の表情を見て苦笑する。

「泣きそうな顔すんなって!やっと元気になったのにこれじゃ台無しじゃないかぁ」
うぅ……だってぇ…
「安心しな?いつかまた、一緒にいられる時が来るさ。だからさ、今度は"さよなら"じゃなくて――」



「"また会おう"ね、あずさ!」




最後に、にかっと満面の笑顔を浮かべ、董子は手を放した。




董子ちゃん!!!



梓はすぐさま董子の手を握り返そうとするが、カメラのフラッシュのような閃光が瞬くと、三途の川の光景と董子の姿は消え去ってしまった。
上も下もない白一色の光に包まれた空間の中、ふわふわと浮いていた梓の体が、重力を受けて急激に速度を増す。
たとえるならば、高い場所から猛スピードで下へ落ちるような感覚だろうか。目の端からあふれ出た涙の粒が宙に舞い、きらきらと輝きを残した。

そこで、彼女の意識は途切れた。


…。


程なくして、死んだかのように動きを止めていた梓の指が、ぴくぴくと動く。


数刻程度の"異世界"の旅の後、"元の世界"の梓の鼓動が再び音を刻み始めた。


心なしか、先ほどまでの苦悶の表情が穏やかなものに変わっているように見える。


そして、安らかな寝息を立て、未だ眠り続けている彼女の目の端から、一筋の涙が伝ったことを知る者はいない。




次回へ続く…。


作:黒星 左翼